東浩紀『訂正可能性の哲学』―確率と主体と身体と―

東浩紀の『訂正可能性の哲学』をようやく読むことができました。最初の感想は、これまでの氏の本のなかでもっともシンプルな議論になっている、というものでした。

 

この本は二部に分かれています。第一部が「家族と訂正可能性」、第二部が「一般意志再考」と題されています。乱暴にまとめると、第一部は「訂正可能性」という概念の原理を提示し、第二部はそこにおいて「主体」が持つ意味を考えるものになっています。そこで展開されている議論がこれまででもっともシンプルであると感じたのは、これも乱暴にまとめてしまうと、東浩紀がさまざまな形で扱ってきた〈確率〉の問題の地位が大きく変わっているというところに由来している、というのが僕の理解です。東浩紀はこれまで一貫して、哲学的な主張あるいは発見の核に、確率(論)的な想像力を置いていたように思います。しかしこの本では、世界そのものが確率論的あるいは統計学的に統治されるようになってきている中で、その東浩紀の思想の基本的な構図が反転しているのではないか、というのが基本的な見立てです。以下、説明していきます。

 

第一部の構図は、それこそシンプルです。

1)社会はヴィトゲンシュタイン的な言語ゲームでできている

2)そのゲームのルールは原理的に訂正可能である

3)その訂正可能性は、ルールの(エクリチュール的)持続によって未来に開かれている

これが「訂正可能性」の基本原理として提示されます。

その上で、共時的言語ゲームの議論の枠組みに通時的な時間軸を組み込むのが、クリプキの固有名論とアレントの「仕事work」をめぐる議論、という形になります。さらに、アレントの「仕事」がデリダ的なエクリチュールと結び付けられる、というのが理論的な手続です。

 

このように提示される理論的枠組みは、私見では、認知科学でのベイズ脳論や分析哲学での予測誤差最小化理論(ホーヴィ『予測する心』)の延長線上に位置すると思われます。意識が表象する世界は、確率論的に推定された世界像が、現実世界による反証を積み重ねて更新を続けた結果として、現時点では決定的な反証には出会っていないものとしてさしあたり通用しているものにすぎない、という世界観です。この見方では、意識に現われる世界は、背後に想定されるモデルの反証となる経験と出会ってしまえば即座に訂正される、一時的に維持されている過渡的なものとして位置付けられます。その上で、東浩紀が扱っているのは、そこにエクリチュールの観点が加わったときに成立する世界の現れ方をめぐる訂正可能性である、こういう整理になるのではないかと考えています。

 

第二部は、上述の訂正可能性プロセスの中に、〈主体〉がどのように関わっているのかを検討していきます。そこで召喚されるのがルソーであり、「一般意志」と「小さな社会」の対比です。その際、「一般意志」に統計学的なもの(そして確率論的なもの)が割り振られ、「小さな社会」に〈主体〉(とゲームのルールの訂正可能性)が割り振られる、という構図になっています。そして「一般意志」が批判され、「主体」に可能性が見出される(あるいは見出されるべきだと主張される)。

 

この構図が、ある種のシンプルさを呼び込んでいる、というのが僕の理解です。

 

これまでの東浩紀の本がある意味で(世間的に)難しかったのは、〈確率〉の側に可能性を見いだしていたからではないかと個人的に思っています。〈確率〉は、しばしば一般的な直感的理解からは乖離します。ただ東浩紀は、その難解さを〈誤配〉や〈観光客〉というわかりやすく具体的なイメージとペアにすることで、ちゃんと社会に届けていった。今回の本ではその構図が逆になっている。「訂正可能性」という言葉は、文字面だけだと言わんとすることはわかる気がするけど、しかし具体的なイメージを結びにくい。ただし今回は、本論自体が、確率を批判して人間的な主体に可能性を見いだすというわかりやすい構図になっていることで、それが問題になりにくい。つまりこれまでの、〈確率〉をめぐる直感的にわかりにくい論旨をメタファーでわかりやすくする、という関係から、直感的にわかりやすい論旨を直感的にイメージしにくい概念(訂正可能性)へと接続する、という関係へと構図が180度変わっているわけです。

 

僕自身の感覚としては、確率vs主体という構図ではなく、ビッグデータ的な確率論vs個々の主体と結びつく確率論、という、性質の異なる二つの確率論の差異、という構図の方がより可能性があるのではないか、という印象があります。

 

その点で、『訂正可能性の哲学』の議論の構図の中で本当は触れられるべきだった思うのが、〈身体〉という論点です。鈴木健のなめらかな社会論を参照しながら、東浩紀は0.2人間とか0.1人間的な分人に対して、1という統一性をもった主体に足場を置くことの重要性を強調しています。なぜ1が重要なのか。それは身体の単位がそうなっているからだ、と考えるのが僕から見ると自然に思えるのですが、ざっと読んだ限りでは〈身体〉という論点は本書、とくに主体をめぐる議論には登場していません。東浩紀という人は、「だって身体は一つじゃないか」みたいな身も蓋もない事実の哲学的含意を掘り下げることにきわめて長けている印象があるので、そこには鉱脈があったはずだと思えるのです。エクリチュールは分人と相性がいい。しかし身体はちがう。身体は、もちろんサイボーグ的な拡張は可能だけれど、やはり1という強烈な磁場を持っている。この〈身体の確率論〉をどう考えるのかというのが、『訂正可能性の哲学』のありうる出口ではないのか。

 

ともあれ、このように自由に縦横に書いてくれる哲学者/思想家が日本に必要であることは間違いないと思います。実際、今回も大いに刺激を受けることができました。シラス民としても、東浩紀さんにはいろいろ引っ張っていってもらいたいと思っています。なんだかんだ言って、『訂正可能性の哲学』非常に面白かったです。