三木那由他『話し手の意味の真理性と公共性』――共同性とコミュニケーションの範囲の定義

三木那由他『話し手の意味の真理性と公共性』

 三木那由他『話し手の意味の真理性と公共性 コミュニケーションの哲学へ』。ざっと読んだ範囲での雑感。グライス的な意図を基盤とするコミュニケーション理解から、テイラー的な共同性を基盤としたコミュニケーション理解へのパラダイム転換を提示する本。

 コミュニケーションには、話し手の意図や、話し手と聞き手がもっている知識には還元できない、微妙な共同性のレベルというものがある。この本が焦点を当てようとしているのは、そのような共同性のレベルであり、またそのような共同性を前提とするとともに、またそのような共同性を立ち上げるものとして挙動している言語の在り方だ。では、それはどのような共同性なのか。

 たとえばある捜査の情報を警察が記者にリークしようとする。ただ大ぴらにはそんなことはできない。そこで、ある捜査員が部屋に捜査資料を置きっぱなしにして、記者にそれとなく匂わせる。経験豊富な記者は捜査員の意図にすぐ気づき、その部屋に入って資料の情報を入手する。ここでは、捜査員の意図にもとづく情報のやり取りが生じている。しかし捜査員の意図は「共同的」なものではなく、もしのちに記者が「捜査員がリークしようという意図をもって部屋に入れてくれた」と主張した場合には、捜査員は間違いなく「そのような意図をもったことはない」と反論するだろう。本書が繰り返し参照するテイラーに従うなら、捜査員と記者とのやりとりには「わたしたちのものentre nous」という共同性が欠けている、ということになる。対して、もし捜査員が記者に言葉で「部屋に資料を置いておいたからその写真を撮ってください」と伝えたとすれば、「記者に見せる意図はなかった」という主張は成立しない(本当にそうかは別として、そういう前提で語用論の議論は作られている)。後者の例においては、捜査官の意図が共同的なものとして成立しており、それゆえ記者がその意図を社会的な行為のなかで活用することが可能になっている。

 個人のなかで生じていた意図という心理学的な事実とは別に、話し手と聞き手との関係性のなかで成立する、共同的な事実性のレベルというものが存在して、言語というものはこの共同的な事実性のレベルをもとに理解する必要があり、また意図というものも、こうした共同的な事実性のレベルに登録されたものとして理解する必要がある、というのが本書の主張だ。そしてその背後には、そのように共同的な事実性に登録されていない意図は、そのコミュニケーションの参加者にとって利用可能ではなく、それゆえコミュニケーション的事実として意味をもたない、というプラグマティズム的な言語理解があるのだと思われる。

 この議論が扱っている「共同性」という次元は、ラカンジジェクが「大文字の他者」と呼んだものとパラレルなものだと思う。その議論(とくにジジェク)でも、事実としてみなが「知っている」ことと、大文字の他者が「知っている」こととの間の違いが問題となる。この違いを設定することによって、みんな知っているのに社会ではみんな知らないことになっている、といういびつな事態が記述可能になる。ちょっと飛躍になるが、たとえばジャニーズ問題については、少し前まではその「問題」については多くの人が「知っていた」にもかかわらず、公共的な言説の場では社会はそのことを「知らない」ことになっていた。だからジャニーズ事務所はそのような問題は存在しないものとして社会的に振る舞うことが可能だった。しかしBBCの報道という外圧によって、その問題は「大文字の他者」の次元に登録され、それゆえジャニーズ事務所も、振る舞いのルールを根本から変更せざるを得なくなった。

 精神分析の枠組みでは、この問題は無意識の構造の問題(さらにイデオロギーの問題)として扱われる。他方、語用論の伝統では同じ問題が意図をめぐる枠組みの延長線上で、意図を共同性のなかに組み込むという操作によって扱えるようにしようとする、という構図なのだと思う。さらに語用論の場合は、無意識の構造をめぐる思弁的な考察ではなくて、具体的な言語の使用を分析することで、その挙動のなかに内在するものとして共同性の次元を見いだしていく、という異なるアプローチを有することになる。同じような問題を扱っているのだとしても、精神分析的アプローチをとるか、語用論的なアプローチをとるかで、扱える対象もその扱い方も大きく変わる。またその理論にいたる概念発達の経路が違うので、活用可能な概念的リソース群も異なる。

広義のコミュニケーションと狭義のコミュニケーション

 個人的には、意図を基盤とするコミュニケーションから、共同性を基盤とするコミュニケーションのモデルへ、という方向は正しいのだと思っています。ただ気になるのは、コミュニケーションという概念の範囲設定。本書、というよりは語用論全体に関わるものなのかもしれないですが、コミュニケーションが指す範囲が、(心理的なものであれ共同的なものであれ)意図に紐づいたやり取りにつねに限定される。たとえば先ほど挙げた、捜査員と記者との暗黙のやり取りは、端的に「コミュニケーションではない」とされる。これは正しいとか間違っているとかいう話しではなくて、たんにコミュニケーションをどう定義するのかという定義問題でしかない。ただ、当然ながらコミュニケーションを広く定義して、意図を参照しないやりとりも含めたコミュニケーションのなかに、何らかの仕方で意図を参照するコミュニケーションを位置付ける、という定義の選択も当然可能なはずだ。というよりも、こちらの定義の方がずっと自然に思えるのは自分だけだろうか。たとえば動物同士のやりとりをコミュニケーションと呼ぶことは自然に思えるが、上記の狭いコミュニケーション概念だと、動物たちが行っているのはコミュニケーションではない、という少し不自然な(何が自然なのかはまあよくわかりませんが)主張をすることになる。しかしそうした不自然さ以上に、狭義のコミュニケーションの定義は、動物的なコミュニケーションと人間的なコミュニケーションとの連続性を考慮することを、体系的に拒絶する身振りのようにも見える。進化論的に考えれば(つまりインテリジェントデザイン的な説を信じるのでない限り)、原初的な生命体が行ってきたコミュニケーションの延長線上で(どれほど大きな飛躍があったとしても)人間的なコミュニケーションも成立しているというのは自明だと思うので、やはり上記の狭いコミュニケーション定義の採用は奇異に映る。

 広義のコミュニケーションという集合のなかで、意図に根差した狭義のコミュニケーションはこの部分に位置するよ、というマッピングではどうして駄目なのか、誰か教えて欲しい。。。