事実としての多様性と理念としての多様性について

事実としての多様性と理念としての多様性について

 ゴールデンウィーク、家族で大きな公園に出かけて、自然はいいなあ、樹とか草とか生き物とか多様性はいいなあとホッコリしていたら、急にそもそも多様性ってなんだろうという疑問に襲われた。現代社会では、多様性というのは良いものだということになっている。いろんな植物がいたりいろんな生き物がいたりした方がいいし、いろんな人たちが自分たちらしく生きられる世界がいい。そういうことになっている。でもあんまりちゃんと考えたことはなかったけど、公園の生き物の多様性と、ダイバシティ社会的な多様性って、そもそも全然違うことだなと思い至る。

事実としての多様性

自然はそもそも多様だ。図鑑を見ればわかる。海の生き物も陸の生き物も空飛ぶ生き物も名前が多すぎて覚えられない。コケとかキノコとか虫とかなんだってそうだ。石にだって数えきれないくらいの種類がある。ただ当たり前だけど、こうした多様性は社会のダイバーシティとか言われるときの多様性とは本質的に違っている。社会のダイバーシティがあちこちで語られるのは、社会のダイバーシティが十分ではないと認識されているからだ。個人の多様な在り方をちゃんと反映させることができていないから、もっと頑張ろうという掛け声がダイバーシティ社会だ。でも自然は違う。自然の多様性は、単なる事実だ。進化の過程で様々な種が生まれ、淘汰され、複雑極まりない関係性のなかで作り上げられていった生態系の、現時点での姿がその多様性の実態だ。だから自然の生き物たちは、もっとダイバーシティをなどと頑張ったりしない。ただ必死にサバイバルしているだけで、その結果が人間から見たら多様に見えるというだけの話だ。そもそも自然は「弱者」に優しくない。生き残れるものが生き残ったという事実の積み重ねだけがある。そこにあるのは、なんというか、社会のダイバーシティとか言われるときのイメージと、まったく逆の多様性だ。この多様性を、〈事実としての多様性〉と呼んでおこう。

 

理念としての多様性

社会のダイバーシティといわれるときの多様性は、さっきも言ったように事実としては(まだ)存在していない多様性だ。こちらを〈理念としての多様性〉と呼ぶことにする。これはいってみれば社会が掲げた目標だ。事実という言葉との対比という点では、権利上の多様性と呼んでもいいかもしれない。権利ということでは、〈人権〉という概念ととても近い。〈人権〉も、事実ではなく社会が掲げた理念だ。「人は誰もが基本的人権を持っている」という主張は、あたかも事実を語っているように装っているが、これは事実を語るという形式での社会的な理念の主張だ。別の言い方をすると、社会のなかでの決め事という関係的な概念を、あたかも事実として存在する何かを指す実体的な概念へのスライドさせる、マルクスがフェティッシュ化(物神化)と呼んだ操作だ。ともかく、現実には実現されていない理念的な方向性を努力目標として指し示すのが〈理念としての多様性〉だ。だから、たぶんこれから社会は少しずつダイバーシティを実現させていくことにはなると思うけど、しかしどこまでいっても「まだ十分ではない」何かとしてダイバーシティは位置づけられる。

 

人間の能力とダイバーシティ

ここにはない多様性を求める、というこの構図は、自然界からするとかなり奇妙なものだろう。自然界ではどの生物種もサバイバルすることに必死なのだから。こうした理念としての多様性が可能になっているその大元には、技術として具体化される環境を大きく改変する人間の能力があるのだと思う。技術を進化させることによって、人類は自然界でサバイバルするという課題に悩まされないで済むようになった。このある種の「余裕」が、そもそも〈理念としての多様性〉が成立する前提条件だろう。単純に考えて、バリアフリーは一定以上のテクノロジーが存在しないと実現不可能だ。自然空間から相対的に自律した人工空間が、〈理念としての多様性〉が成立する場となっていると思われる。個人的にはダイバーシティはコストとの相関で考える必要があり、コストを払える社会の能力に比例して社会はダイバーシティを許容できるようになる、という構図があるんじゃないかという気がする。つまり社会の能力が増せば増すほど、ダイバーシティのポテンシャルは上がる。このあたりについてはまた別に考えてみることにする。

 

近代化と多様性

ところで事実としての多様性ということで言えば、人類ももちろんずっと多様だったはず。その多様性を支えていたのは、単純化すれば環境の多様性だった。そして環境の多様性は、地理的な隔たりによって担保されていた。海を渡れないから、山が高いから、砂漠を超えられないから、といった地理的条件が、円滑な交流を阻害し、それぞれの環境で多様性を育てていった。その事実が意識されるのは、現代ではそういった地理的条件が加速度的に克服されていっているからだ。それがある閾値を超えた瞬間を、おそらく近代化と呼ぶ。その結果としてグローバル化が進み、いまでは情報技術の発展によって、地理的障壁はかつてないほどに克服されつつある。もちろんそこでも多くの多様性が残っているが、しかし傾向としては明らかに均質化へと向かっている。この事実が、もとから多様であった人間の世界に〈理念としての多様性〉を要請するようになっている。近代化に対するリアクション的な産物の一つが〈多様性〉概念である、というのはおそらくそれほど間違っていない認識なのではないか。

 

多様性とパルマコンとしての近代化

近代化が多様性を相対的に失わせていくことで、〈理念としての多様性〉が生み出される。しかしその〈理念としての多様性〉に応えることができるポテンシャルは、社会全体の様々な能力に依存していて、その能力を高めてきたのがほかならぬ近代化のプロセスだ。ここには近代化の産物としての多様性をめぐる根本的なパラドックスが存在するのではないか。毒にも薬にもなる両面性をデリダパルマコンと呼んだが、近代化は多様性にとってパルマコンと機能しているのだろう。なんてことを公園でトイレに行きながら考えていたのでした。