東浩紀『訂正可能性の哲学』と確率の問題

訂正可能性と予測する脳

 東浩紀が提起している「訂正可能性」という考え方は、脳科学における「予測する脳」のモデルときっととても親近性がある。自分の理解では、予測する脳モデルは脳の役割を、世界のありかた(世界仮説)を予測してそこに確率を割り振り、新たな情報が追加されたらその確率を計算し直す、という予測機械として捉える。そこで予測される世界というのは未来にはみ出したもので、次に世界からもたらされる展開の予想を含んでいる。そしてその予測の原理はとてもシンプルで、予測された世界に基づいて期待される次の出来事と、実際に到来する出来事との誤差(驚き)を最小化する、というもの。もし予測された世界から期待される出来事を大きく裏切る(驚きをもたらす)出来事がもたらされたのだとすれば、それは予測が不正確だったということを意味する。だから今度は驚きをもたらした出来事を遡及的に組み込んだ形で、予測のモデルを組み替えていく。直前に驚きをもたらした出来事の到来を、ちゃんと予測できていたはずのモデルを組み立て直すのだ。これが自由エネルギー原理の基本的なコンセプトで、すべての脳の働き(さらには生命現象まで)をこの原理の延長線上で捉えようとする。

 ここで示されている脳のモデルは、訂正可能性の議論と完全にパラレルだ。言語ゲームのなかで、ひとはゲームのルールを予測し、その予測に基づいて振る舞う。もし他者の振る舞いや、あるいは自身も含むプレーヤーの振る舞いに与えられるルール上のサンクションが、自分が予測していたルールの内実からは導き出されないものだったとしたら、ルールについての予測が間違っていたことを意味する。だからプレイヤーはルールについて新たな予測を行い、ルールの想定を訂正して、次からはその訂正し直された想定ルールに基づいて振る舞う。これは、予測する脳が世界についての仮説を更新していくプロセスと、ほぼ同じロジックだ。

 両者に異なっている点があるとすれば、それは予測する脳モデルが「確率」という考え方を導入している点だ。脳は予測された世界の仮説に、そのもっともらしさについての確率を割り振る。実際は、複数の仮説が形成され、それぞれの仮説にもっともらしさの確率が割り振られ、最も高い確率が割り振られた仮説が行動の指針として採用される。次の瞬間の世界が脳に大きな驚きをもたらしたとすれば、それぞれの仮説に割り振られていた確率はそれぞれ大きく更新され、もしかしたらそれまでは下位に位置していた仮説が最も大きな仮説を割り当てられるかもしれない。するとその瞬間、脳が採用する世界の仮説が切り替わる。クリプキのいうクワス算が突然採用される瞬間だ。

 この確率の概念は、世界仮説がダイナミックに訂正されていくプロセスに具体的なイメージを与えてくれると同時に、このプロセスに確率論にもとづく数理的な処理を可能にするという大きなメリットがある。詳しくはわからないけど、根本のコンセプトについては、ベイズ更新のプロセスとして基本的には説明できるようだ。

訂正可能性とエクリチュールとテクストの問題

 ところで訂正可能性の概念は、テクストを読んで理解する、という営為をめぐるモデルを根本的に組み替えることになるはずだ。東浩紀の場合、この営為については『存在論的郵便的』が提示した「郵便」のモデルがある。前に書いたように東浩紀の郵便概念は、意味の決定不可能性を「それでも誰かに届く」という肯定的な形式に書き換えたという点が発明だったと理解している。しかし訂正可能性の概念は、おそらく「郵便」とはまた大きく異なったビジョンを提起すると思われる。

 「郵便」は、つまりはエクリチュール(書かれた言葉)をめぐる議論だった。そして「郵便」が喚起したのは、いつかだれかに届くかもしれないという可能性のなかに浮遊するエクリチュールだった。でも「訂正可能性」が関わるのは、エクリチュールではなく「理解」なのだと思う。訂正可能性は、エクリチュールの問題ではなく、エクリチュールの現われをめぐって行われる受け手の予測に関わるものだ。そして訂正は、エクリチュールそのものは変えずに、エクリチュールが「結果的に何を意味していたのか」をめぐる仮説を事後的に訂正していくプロセスだ。そしてこのことは、理解するとは何か、ということをめぐっての新しいモデルにつながるはずだ。

 しかし僕が読んだ範囲では、訂正可能性は主に社会的なルール(規則)をめぐって議論が展開されていて、読むという営為についてはあまり触れられていないように感じられる。言語ゲームは当然エクリチュールとしても展開されるわけであり(そもそも少なからぬルールは文字として書かれている)、エクリチュールをめぐる主著でキャリアを開始したという出自から言っても、訂正可能性の概念がエクリチュールとその受容(読むこと)をめぐって、どのようなモデル変更を迫るかについての考察が展開されるのが自然のように思える。原理論という点では、そこが一番の原理論になるのじゃないだろうか。そこで東浩紀の代わりに、訂正可能性の哲学をエクリチュールとレクチュール(読み)に適用するとどうなるのかについて、簡単に考えてみる。

理解モデルの訂正プロセスとしてのレクチュール

 切り口は、予測する脳だ。予測する脳のモデルの延長線上で、テクストを読んで理解する、という行為を位置付けるとどうなるか。ここで補助線として、ソシュールによる差異の体系としての言語観を参照してみよう。ソシュールは記号を、世界につけられたラベルとしてではなく、他の記号との差異によって意味を生み出す差異の体系であるとした。記号は、元から切り分けられた世界に与えられたラベルではなく、記号同士の差異によって世界そのものを切り分ける差異創出のプロセスである、という主張だ。そしてそうして動的に切り分けられたそれぞれの記号(シニフィアン)が、その内容(シニフィエ)を意味する、というモデルだ。

 でもよく考えてみればおかしな話だ。記号が他の記号との間に作り出す差異の体系によって意味の分節を成立させるのだとしたら、その分節の正確な内実は、その体系の全体がわからなければ確定できないはずだ。でも現実の人間は、誰一人としてその膨大な差異の体系の全体を見通すことはできない。直接観測できる範囲で個々の記号同士が違っているとして、それらの差異の内実は、さらに別の記号との関係によって規定され、そしてその別の記号も同様に、というように無限に後退していく。とすると、現実的な人間にとっては、自分が使おうとしている言語がどのような差異の体系であるかは確定できない、ということになる。どうすればいいか。

 予測すればいいのだ。自分が見知った範囲の記号の出現から、その背後にある差異のシステム全体を予測し、それに基づいて個々の記号の意味作用を推測していく。予測する脳モデルであれば、言語の使い手は現実に経験した記号の現われを通して、その背後にある差異の体系についての仮説を形成し、そこに確率を割り当てているのだと考えるだろう。そして新しい記号の用法に出会うたびに、その確率を更新していく。ここに見出されるのは、まさに際限のない訂正のプロセスだ。訂正可能性の哲学は、ソシュールの差異の体系という考え方をきれいに取り込むことができるように見える。

 そしてここで言語について得られたモデルは、テクストを読むという行為にもそのまま応用できる。テクストを読むという行為は、そこで言及されていることがらや知識を得ることとはまったく異なる。予測する脳のモデルに従えば、テクストを読むという行為は、エクリチュールの展開に合わせて次に出現するエクリチュールをできるだけ誤差なく予測できるような内部モデルを作り上げていくプロセスだ。だから範例となるのは難解なテクストを読むという行為だ。時間をかけ、繰り返し読み返すことでかつて難解だと思われたテクストが理解可能になる、というプロセスは、その難解なテクストという宝箱に入っていた宝物を手に入れることができた、という出来事では全くない。そうではなく、自身が事前に有していた理解のためのモデルでは理解できないエクリチュールの現われを繰り返し読むことによって、それらの現われの規則を整合的に予測できるように自身の理解のモデルを訂正していくプロセスこそが、読むという行為であるということになる。このモデルでは、読むという行為は、エクリチュールの現われの規則をめぐる、自分自身の理解のモデルを際限なく訂正していくプロセスでしかない。

 ここには、「郵便」とはまったく異なるエクリチュールとレクチュールのモデルが立ち現れる。訂正可能性の概念は、そもそも読むとは何か、理解するとは何かについての新しいモデル(それは同時に書くとは何かのモデルでもある)を要請するように思えてならない。

石黒浩×谷口忠大シンポジウム

 ちなみに、記号の理解(さらには創発)をこのような確率論的な推論のプロセスとして位置付けようとする試みに、谷口忠大の「記号創発ロボティクス」がある。この理論や、その核心に位置する集合的予測符号化の概念の詳細については、ここで簡単に説明するのは難しいので、同氏の『心を知るための人工知能: 認知科学としての記号創発ロボティクス』を参照のこと。ただ、より手軽にその思想に触れられる機会が3月2日(土)にあります。以下、アンドロイド研究で知られる大阪大学石黒浩さんと、記号創発ロボティクスの谷口忠大さんが、人間学としてのロボット研究について討議するシンポジウムの宣伝を貼っておきます。

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ロボットと人間をめぐるシンポジウム開催のお知らせ
タイトル:ロボット学者はなぜ小説を書くのか?――漱石アンドロイドと人間学としてのロボット研究

概要:
「人間のようなもの」の存在は、そもそも人間とは何かという問いを突きつける。人間そっくりのアンドロイドの研究を進め漱石アンドロイドの制作も手掛けた石黒浩、人間のように記号を生み出すロボットの研究「記号創発ロボティクス」を展開してきた谷口忠大。二人のロボット研究者は、ロボットを通して人間の輪郭を問いつづけてきた。加えて二人は、ロボットにまつわる小説を出版している異色のロボット研究者でもある。ロボット研究と小説の両面から、人間を考えるためのロボットについて討議する。

プログラム
〇 漱石アンドロイドによるオープニングパフォーマンス(13:00 – 13:15)
「ポーの奇妙な物語――開会の辞に代えて」

〇 第一部「なぜ人間を考えるためにロボットを作るのか?」(13:15 – 15:00)
趣旨説明:谷島貫太(二松学舎大学/討論司会)
講  演:石黒浩大阪大学
講  演:谷口忠大(立命館大学

〇 第二部「ロボット学者はなぜ小説を書くのか?」(15:15 – 17:00)
趣旨説明:谷島貫太(二松学舎大学/討論司会)
問題提起:伊豆原潤星(二松学舎大学)/加藤隆文(大阪成蹊大学)/増田裕美子二松学舎大学
コメント:谷口忠大(立命館大学)/夏目房之介(マンガ批評家)

 

開催日時:2024年3月2日(土)13:00-17:00
会場:二松学舎大学九段キャンパス1号館中洲記念講堂
アクセス:
https://www.nishogakusha-u.ac.jp/about/campus/a7.html
事前申込(無料):下記Google Formからお申し込みください。(2月29日〆切 ※定員超過の場合は先着順)
https://forms.gle/ym3b5vBLRYeN7wsE6
イベントサイト:
https://www.nishogakusha-u.ac.jp/android/event/20240302.html
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