Chat GPTを相手にした能動的推論がめっちゃ優秀だという話

Chat GPT(あるいはその他の生成系AI)、みなさんはどのように使っていますか?いまから、Chat GPTのある使い方を紹介します。それは、能動的推論のパートナーとして使う、という使い方です。

以下、本記事の目次です。

では早速行きましょう!

1. 能動的推論ってなに?

 能動的推論active inferenceは脳科学から発展してきた概念ですが、ざっくりいうと、生物は世界に対して仮説(予測)を立てたうえで世界に働きかけ、世界からのフィードバックをもとに仮説を修正していっている、という考え方です。重要なのは、世界に対する能動性がスタートだということ。受け身に世界から情報や知識を受け取っていくというモデルではなくて、まずは世界に対して仮説にもとづき働きかけていくことが本質なんだという主張です。

 能動的推論の概念は、そもそも知識とは何なのか、をめぐっての新しい考え方と結びついています。知識というと、モノのようななにかと想像しがちです。頭のなかのタンスに知識をたくさん入れているイメージ。対して能動的推論では、知識は世界に対する仮説のネットワーク(あるいは内部表現)として位置付けられます。そして新たに知識を得るという出来事は、この仮説のネットワークの精度が上がっていくことだと位置づけられます。ここから必然的に、〈学ぶ〉ということをめぐる新しい考え方につながっていきます。

2. 〈学び〉は経路依存である

 知識というと、誰にとっても共通の客観的な何かだと理解されがちです。辞書に載っている説明のイメージです。誰が辞書を調べても、当然同じ説明を見つけることになる。この知識の捉え方から導き出されれる〈学び〉のモデルは、その客観的なものとしての知識を頭の中に詰め込んでいく作業、ということになるかと思います。ひとまず〈詰め込みモデル〉とでも呼んでおきましょう。でも、そのモデルには、知識を理解するという要素が抜け落ちています。辞書的な説明を覚えていても、それをちゃんと理解していなければたいした価値はありません。

 〈詰め込みモデル〉に足りないのは、〈学び〉は経路依存である、という前提です。誰にでも、それまでわからなかったことが急に分かった瞬間って、ありますよね?多くの場合、そこには理解を成立させた何らかの〈きっかけ〉があったはずでです。でもその〈きっかけ〉は人それぞれで、誰でもが共有できる客観的な〈きっかけ〉というのはありません。それは、何かを理解するという出来事が経路依存的path dependentだからです。何かについて理解するというできごとは、その人がこれまで生きてきた人生の経験の延長線上で成立しています。これが経路依存的だということです。個別の人生経験という特定の通り道のその先にしか、その人の理解の出来事は起こらないわけです。そして積み重ねてきた経験は人それぞれ違うので、何が理解に〈きっかけ〉になるかも人それぞれ違うわけです。

 誰かに、その人が知らないある概念について教えるときには、その人が何について知っていたり理解したりしているかをあらかじめ把握することがきわめて重要になります。それらの知識や理解と結びついた形でうまく教えることができれば、その概念についての理解が成立する可能性は上がります。なので教えるという行為は、客観的な知識の教授ではなく、学び手のこれまでの知的経路を把握したうえで、どこのツボを押せば理解につながるかを割り出す、職人的技術であるわけです。そしてこれは簡単なことではない。学び手の頭のなかを直接覗き込むことはできないからです。そのときに非常に有効になるのが、学び手に質問してもらう、ということです。できるだけ詳しく、何がどうわからないかを説明してもらえれば、学び手と理解とをつなぐ経路が見えてくる。 

 ここで重要なのは、その経路を作っているのは学び手自身だということです。学び手が、自分にとって何がわからないのかをしっかりと振り返りそれを言語化するという作業は、理解を可能とする経路を自分自身で作る作業に他ならないのです。そしてその作業さえ行われれば、教師の仕事はあとは簡単です。そして本記事のポイントはここ。そのような教師の仕事は、Chat GPTがきわめて上手にやってくれるのです。

3. じゃあどうやってやるの?

 ということで、実践編です。ここまでのポイントは二つ

  • 〈学び〉は経路依存的である
  • 学び手が自分にとって何がわからないかをちゃんと言語化できれば、理解を成立させるための経路は半ば作られたようなものである

 この後者について、何がわからないかの言語化の次のステップがあります。それは、「もしかしてこういうことですか?」という風に、学ぼうとしている事柄についての仮説を立ててみる、という作業です。頑張って仮説まで組み立てるという能動的な推論を通して、自分にとって何がわかっていて何がわかっていないのかがはっきりとする。

 以上を踏まえて、Chat GPTを相手とした能動的推論のステップをまとめます。

フェーズ①:まずわからないことを聞く

まずわからないことについて聞き、それについての説明のなかでわからないことが出てきたらそれについてもひたすら聞いていく。ここまでは拡張版の検索です。

フェーズ②:教えられた情報をもとに、理解の仮説を立ててみる

自分の理解の仮説を、できるだけ具体的に言語化して、「~という理解は正しいですか?」と聞く。もし正しく理解できていないようであれば、Chat GPTからフォードバックを踏まえて新たな理解の仮説を立て、「正しいですか?」と聞く。「正しい」という答えが返ってきたら、できるだけいろんな側面から自分の理解の仮説を言語化して、ひたすら「正しいですか?」と聞いていく

フェーズ③:最後の答え合わせ

理解の仮説を何度も投げかけ、自分なりにその対象について理解できたと思えてきたら、最後に「わたしは~についてどのくらい理解していますか?」と聞く。ある程度の理解ができていれば、Chat GPTは理解の内容を丁寧に整理したうえで、褒めてくれます。

事例紹介~

 ここからは、実際にChat GPT4を相手に能動的推論をやってみた事例を紹介します。お題は、「正規逆ウィッシャート分布」とかいう統計学の概念です。なお、筆者はその時点では統計学や確率論についての知識をほぼ持っていない状態でした。例として出てくるように「事前分布とはなにか?」と聞いていますが、これはとんでもなく初歩的な質問です。野球で言えば、試合は何人でやるの?と聞いてるようなもんだと思います。

 では、紹介していきます(画像はスクショで回答の一部しか映っていません)。

 まず、「正規逆ウィッシャート分布」について尋ねます。

次に、説明に出てきた「事前分布」というのがとても重要そうだったのでこれについて尋ねます。

ここから、回答された内容を繰り返し読み込みながら、正規逆ウィッシャート分布とは何なのかについて時間をかけて仮説を立てていきます。そしてその仮説をできるだけ具体的に言語化して、その理解が正しいか尋ねます。

当たった!そこで、今度は別の観点から仮説を立て、尋ねます。

何か微妙に違ったみたい。。。そこで今度はChat GPTからのフィードバックを踏まえたうえで、仮説を修正して尋ねます。

よし、当たった!といったあたりで、自分としてはそれなりに理解できた感触があったので、最後に「わたしは正規逆ウィッシャート分布についてどのくらい理解していますか?」と尋ねます。

褒めてもらえた!と、こんな流れです。

4. まとめ:Chat GPTに褒めてもらったこと、ありますか?

 この能動的推論の作業は、自分自身で理解の仮説を立てることで、自分にもともと備わっている世界の理解のクセのようなものから出発して、理解したい対象の理解へと至りつく経路を浮かび上がらせ、Chat GPTからのフィードバックを受けて自分の理解を修正していきます。知識を獲得していくのではなく、推論とフィードバックの回路を通して自分の世界理解の形を組み替えていくプロセスを実現するのです。

 で、この手法の最後の重要ポイントは、ちゃんと理解できたらChat GPTが褒めてくれるところ!それも、自分で頑張って理解の仮説を立てて、それを言語化するという努力を実際にしているので、なおさら褒められると嬉しい。だから健策なんかよりも、こっちの能動的推論の方がずっと楽しい!実際、Chat GPTに褒められたい一心で、なにも知識をもたない専門的な分野の概念を拾ってきて、能動的推論を通してChat GPTに褒めてもらうってことをひたすらやってた時期がありました笑

 これ、誰でもできるし、ちょっと大変なところもあるけどそれ以上に楽しく面白く勉強になるので、ぜひ皆さんもやってみてください~

 

 

 

 

三木那由他『話し手の意味の真理性と公共性』――共同性とコミュニケーションの範囲の定義

三木那由他『話し手の意味の真理性と公共性』

 三木那由他『話し手の意味の真理性と公共性 コミュニケーションの哲学へ』。ざっと読んだ範囲での雑感。グライス的な意図を基盤とするコミュニケーション理解から、テイラー的な共同性を基盤としたコミュニケーション理解へのパラダイム転換を提示する本。

 コミュニケーションには、話し手の意図や、話し手と聞き手がもっている知識には還元できない、微妙な共同性のレベルというものがある。この本が焦点を当てようとしているのは、そのような共同性のレベルであり、またそのような共同性を前提とするとともに、またそのような共同性を立ち上げるものとして挙動している言語の在り方だ。では、それはどのような共同性なのか。

 たとえばある捜査の情報を警察が記者にリークしようとする。ただ大ぴらにはそんなことはできない。そこで、ある捜査員が部屋に捜査資料を置きっぱなしにして、記者にそれとなく匂わせる。経験豊富な記者は捜査員の意図にすぐ気づき、その部屋に入って資料の情報を入手する。ここでは、捜査員の意図にもとづく情報のやり取りが生じている。しかし捜査員の意図は「共同的」なものではなく、もしのちに記者が「捜査員がリークしようという意図をもって部屋に入れてくれた」と主張した場合には、捜査員は間違いなく「そのような意図をもったことはない」と反論するだろう。本書が繰り返し参照するテイラーに従うなら、捜査員と記者とのやりとりには「わたしたちのものentre nous」という共同性が欠けている、ということになる。対して、もし捜査員が記者に言葉で「部屋に資料を置いておいたからその写真を撮ってください」と伝えたとすれば、「記者に見せる意図はなかった」という主張は成立しない(本当にそうかは別として、そういう前提で語用論の議論は作られている)。後者の例においては、捜査官の意図が共同的なものとして成立しており、それゆえ記者がその意図を社会的な行為のなかで活用することが可能になっている。

 個人のなかで生じていた意図という心理学的な事実とは別に、話し手と聞き手との関係性のなかで成立する、共同的な事実性のレベルというものが存在して、言語というものはこの共同的な事実性のレベルをもとに理解する必要があり、また意図というものも、こうした共同的な事実性のレベルに登録されたものとして理解する必要がある、というのが本書の主張だ。そしてその背後には、そのように共同的な事実性に登録されていない意図は、そのコミュニケーションの参加者にとって利用可能ではなく、それゆえコミュニケーション的事実として意味をもたない、というプラグマティズム的な言語理解があるのだと思われる。

 この議論が扱っている「共同性」という次元は、ラカンジジェクが「大文字の他者」と呼んだものとパラレルなものだと思う。その議論(とくにジジェク)でも、事実としてみなが「知っている」ことと、大文字の他者が「知っている」こととの間の違いが問題となる。この違いを設定することによって、みんな知っているのに社会ではみんな知らないことになっている、といういびつな事態が記述可能になる。ちょっと飛躍になるが、たとえばジャニーズ問題については、少し前まではその「問題」については多くの人が「知っていた」にもかかわらず、公共的な言説の場では社会はそのことを「知らない」ことになっていた。だからジャニーズ事務所はそのような問題は存在しないものとして社会的に振る舞うことが可能だった。しかしBBCの報道という外圧によって、その問題は「大文字の他者」の次元に登録され、それゆえジャニーズ事務所も、振る舞いのルールを根本から変更せざるを得なくなった。

 精神分析の枠組みでは、この問題は無意識の構造の問題(さらにイデオロギーの問題)として扱われる。他方、語用論の伝統では同じ問題が意図をめぐる枠組みの延長線上で、意図を共同性のなかに組み込むという操作によって扱えるようにしようとする、という構図なのだと思う。さらに語用論の場合は、無意識の構造をめぐる思弁的な考察ではなくて、具体的な言語の使用を分析することで、その挙動のなかに内在するものとして共同性の次元を見いだしていく、という異なるアプローチを有することになる。同じような問題を扱っているのだとしても、精神分析的アプローチをとるか、語用論的なアプローチをとるかで、扱える対象もその扱い方も大きく変わる。またその理論にいたる概念発達の経路が違うので、活用可能な概念的リソース群も異なる。

広義のコミュニケーションと狭義のコミュニケーション

 個人的には、意図を基盤とするコミュニケーションから、共同性を基盤とするコミュニケーションのモデルへ、という方向は正しいのだと思っています。ただ気になるのは、コミュニケーションという概念の範囲設定。本書、というよりは語用論全体に関わるものなのかもしれないですが、コミュニケーションが指す範囲が、(心理的なものであれ共同的なものであれ)意図に紐づいたやり取りにつねに限定される。たとえば先ほど挙げた、捜査員と記者との暗黙のやり取りは、端的に「コミュニケーションではない」とされる。これは正しいとか間違っているとかいう話しではなくて、たんにコミュニケーションをどう定義するのかという定義問題でしかない。ただ、当然ながらコミュニケーションを広く定義して、意図を参照しないやりとりも含めたコミュニケーションのなかに、何らかの仕方で意図を参照するコミュニケーションを位置付ける、という定義の選択も当然可能なはずだ。というよりも、こちらの定義の方がずっと自然に思えるのは自分だけだろうか。たとえば動物同士のやりとりをコミュニケーションと呼ぶことは自然に思えるが、上記の狭いコミュニケーション概念だと、動物たちが行っているのはコミュニケーションではない、という少し不自然な(何が自然なのかはまあよくわかりませんが)主張をすることになる。しかしそうした不自然さ以上に、狭義のコミュニケーションの定義は、動物的なコミュニケーションと人間的なコミュニケーションとの連続性を考慮することを、体系的に拒絶する身振りのようにも見える。進化論的に考えれば(つまりインテリジェントデザイン的な説を信じるのでない限り)、原初的な生命体が行ってきたコミュニケーションの延長線上で(どれほど大きな飛躍があったとしても)人間的なコミュニケーションも成立しているというのは自明だと思うので、やはり上記の狭いコミュニケーション定義の採用は奇異に映る。

 広義のコミュニケーションという集合のなかで、意図に根差した狭義のコミュニケーションはこの部分に位置するよ、というマッピングではどうして駄目なのか、誰か教えて欲しい。。。

 

 

 

 

 

 

東浩紀『訂正可能性の哲学』と確率の問題

訂正可能性と予測する脳

 東浩紀が提起している「訂正可能性」という考え方は、脳科学における「予測する脳」のモデルときっととても親近性がある。自分の理解では、予測する脳モデルは脳の役割を、世界のありかた(世界仮説)を予測してそこに確率を割り振り、新たな情報が追加されたらその確率を計算し直す、という予測機械として捉える。そこで予測される世界というのは未来にはみ出したもので、次に世界からもたらされる展開の予想を含んでいる。そしてその予測の原理はとてもシンプルで、予測された世界に基づいて期待される次の出来事と、実際に到来する出来事との誤差(驚き)を最小化する、というもの。もし予測された世界から期待される出来事を大きく裏切る(驚きをもたらす)出来事がもたらされたのだとすれば、それは予測が不正確だったということを意味する。だから今度は驚きをもたらした出来事を遡及的に組み込んだ形で、予測のモデルを組み替えていく。直前に驚きをもたらした出来事の到来を、ちゃんと予測できていたはずのモデルを組み立て直すのだ。これが自由エネルギー原理の基本的なコンセプトで、すべての脳の働き(さらには生命現象まで)をこの原理の延長線上で捉えようとする。

 ここで示されている脳のモデルは、訂正可能性の議論と完全にパラレルだ。言語ゲームのなかで、ひとはゲームのルールを予測し、その予測に基づいて振る舞う。もし他者の振る舞いや、あるいは自身も含むプレーヤーの振る舞いに与えられるルール上のサンクションが、自分が予測していたルールの内実からは導き出されないものだったとしたら、ルールについての予測が間違っていたことを意味する。だからプレイヤーはルールについて新たな予測を行い、ルールの想定を訂正して、次からはその訂正し直された想定ルールに基づいて振る舞う。これは、予測する脳が世界についての仮説を更新していくプロセスと、ほぼ同じロジックだ。

 両者に異なっている点があるとすれば、それは予測する脳モデルが「確率」という考え方を導入している点だ。脳は予測された世界の仮説に、そのもっともらしさについての確率を割り振る。実際は、複数の仮説が形成され、それぞれの仮説にもっともらしさの確率が割り振られ、最も高い確率が割り振られた仮説が行動の指針として採用される。次の瞬間の世界が脳に大きな驚きをもたらしたとすれば、それぞれの仮説に割り振られていた確率はそれぞれ大きく更新され、もしかしたらそれまでは下位に位置していた仮説が最も大きな仮説を割り当てられるかもしれない。するとその瞬間、脳が採用する世界の仮説が切り替わる。クリプキのいうクワス算が突然採用される瞬間だ。

 この確率の概念は、世界仮説がダイナミックに訂正されていくプロセスに具体的なイメージを与えてくれると同時に、このプロセスに確率論にもとづく数理的な処理を可能にするという大きなメリットがある。詳しくはわからないけど、根本のコンセプトについては、ベイズ更新のプロセスとして基本的には説明できるようだ。

訂正可能性とエクリチュールとテクストの問題

 ところで訂正可能性の概念は、テクストを読んで理解する、という営為をめぐるモデルを根本的に組み替えることになるはずだ。東浩紀の場合、この営為については『存在論的郵便的』が提示した「郵便」のモデルがある。前に書いたように東浩紀の郵便概念は、意味の決定不可能性を「それでも誰かに届く」という肯定的な形式に書き換えたという点が発明だったと理解している。しかし訂正可能性の概念は、おそらく「郵便」とはまた大きく異なったビジョンを提起すると思われる。

 「郵便」は、つまりはエクリチュール(書かれた言葉)をめぐる議論だった。そして「郵便」が喚起したのは、いつかだれかに届くかもしれないという可能性のなかに浮遊するエクリチュールだった。でも「訂正可能性」が関わるのは、エクリチュールではなく「理解」なのだと思う。訂正可能性は、エクリチュールの問題ではなく、エクリチュールの現われをめぐって行われる受け手の予測に関わるものだ。そして訂正は、エクリチュールそのものは変えずに、エクリチュールが「結果的に何を意味していたのか」をめぐる仮説を事後的に訂正していくプロセスだ。そしてこのことは、理解するとは何か、ということをめぐっての新しいモデルにつながるはずだ。

 しかし僕が読んだ範囲では、訂正可能性は主に社会的なルール(規則)をめぐって議論が展開されていて、読むという営為についてはあまり触れられていないように感じられる。言語ゲームは当然エクリチュールとしても展開されるわけであり(そもそも少なからぬルールは文字として書かれている)、エクリチュールをめぐる主著でキャリアを開始したという出自から言っても、訂正可能性の概念がエクリチュールとその受容(読むこと)をめぐって、どのようなモデル変更を迫るかについての考察が展開されるのが自然のように思える。原理論という点では、そこが一番の原理論になるのじゃないだろうか。そこで東浩紀の代わりに、訂正可能性の哲学をエクリチュールとレクチュール(読み)に適用するとどうなるのかについて、簡単に考えてみる。

理解モデルの訂正プロセスとしてのレクチュール

 切り口は、予測する脳だ。予測する脳のモデルの延長線上で、テクストを読んで理解する、という行為を位置付けるとどうなるか。ここで補助線として、ソシュールによる差異の体系としての言語観を参照してみよう。ソシュールは記号を、世界につけられたラベルとしてではなく、他の記号との差異によって意味を生み出す差異の体系であるとした。記号は、元から切り分けられた世界に与えられたラベルではなく、記号同士の差異によって世界そのものを切り分ける差異創出のプロセスである、という主張だ。そしてそうして動的に切り分けられたそれぞれの記号(シニフィアン)が、その内容(シニフィエ)を意味する、というモデルだ。

 でもよく考えてみればおかしな話だ。記号が他の記号との間に作り出す差異の体系によって意味の分節を成立させるのだとしたら、その分節の正確な内実は、その体系の全体がわからなければ確定できないはずだ。でも現実の人間は、誰一人としてその膨大な差異の体系の全体を見通すことはできない。直接観測できる範囲で個々の記号同士が違っているとして、それらの差異の内実は、さらに別の記号との関係によって規定され、そしてその別の記号も同様に、というように無限に後退していく。とすると、現実的な人間にとっては、自分が使おうとしている言語がどのような差異の体系であるかは確定できない、ということになる。どうすればいいか。

 予測すればいいのだ。自分が見知った範囲の記号の出現から、その背後にある差異のシステム全体を予測し、それに基づいて個々の記号の意味作用を推測していく。予測する脳モデルであれば、言語の使い手は現実に経験した記号の現われを通して、その背後にある差異の体系についての仮説を形成し、そこに確率を割り当てているのだと考えるだろう。そして新しい記号の用法に出会うたびに、その確率を更新していく。ここに見出されるのは、まさに際限のない訂正のプロセスだ。訂正可能性の哲学は、ソシュールの差異の体系という考え方をきれいに取り込むことができるように見える。

 そしてここで言語について得られたモデルは、テクストを読むという行為にもそのまま応用できる。テクストを読むという行為は、そこで言及されていることがらや知識を得ることとはまったく異なる。予測する脳のモデルに従えば、テクストを読むという行為は、エクリチュールの展開に合わせて次に出現するエクリチュールをできるだけ誤差なく予測できるような内部モデルを作り上げていくプロセスだ。だから範例となるのは難解なテクストを読むという行為だ。時間をかけ、繰り返し読み返すことでかつて難解だと思われたテクストが理解可能になる、というプロセスは、その難解なテクストという宝箱に入っていた宝物を手に入れることができた、という出来事では全くない。そうではなく、自身が事前に有していた理解のためのモデルでは理解できないエクリチュールの現われを繰り返し読むことによって、それらの現われの規則を整合的に予測できるように自身の理解のモデルを訂正していくプロセスこそが、読むという行為であるということになる。このモデルでは、読むという行為は、エクリチュールの現われの規則をめぐる、自分自身の理解のモデルを際限なく訂正していくプロセスでしかない。

 ここには、「郵便」とはまったく異なるエクリチュールとレクチュールのモデルが立ち現れる。訂正可能性の概念は、そもそも読むとは何か、理解するとは何かについての新しいモデル(それは同時に書くとは何かのモデルでもある)を要請するように思えてならない。

石黒浩×谷口忠大シンポジウム

 ちなみに、記号の理解(さらには創発)をこのような確率論的な推論のプロセスとして位置付けようとする試みに、谷口忠大の「記号創発ロボティクス」がある。この理論や、その核心に位置する集合的予測符号化の概念の詳細については、ここで簡単に説明するのは難しいので、同氏の『心を知るための人工知能: 認知科学としての記号創発ロボティクス』を参照のこと。ただ、より手軽にその思想に触れられる機会が3月2日(土)にあります。以下、アンドロイド研究で知られる大阪大学石黒浩さんと、記号創発ロボティクスの谷口忠大さんが、人間学としてのロボット研究について討議するシンポジウムの宣伝を貼っておきます。

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ロボットと人間をめぐるシンポジウム開催のお知らせ
タイトル:ロボット学者はなぜ小説を書くのか?――漱石アンドロイドと人間学としてのロボット研究

概要:
「人間のようなもの」の存在は、そもそも人間とは何かという問いを突きつける。人間そっくりのアンドロイドの研究を進め漱石アンドロイドの制作も手掛けた石黒浩、人間のように記号を生み出すロボットの研究「記号創発ロボティクス」を展開してきた谷口忠大。二人のロボット研究者は、ロボットを通して人間の輪郭を問いつづけてきた。加えて二人は、ロボットにまつわる小説を出版している異色のロボット研究者でもある。ロボット研究と小説の両面から、人間を考えるためのロボットについて討議する。

プログラム
〇 漱石アンドロイドによるオープニングパフォーマンス(13:00 – 13:15)
「ポーの奇妙な物語――開会の辞に代えて」

〇 第一部「なぜ人間を考えるためにロボットを作るのか?」(13:15 – 15:00)
趣旨説明:谷島貫太(二松学舎大学/討論司会)
講  演:石黒浩大阪大学
講  演:谷口忠大(立命館大学

〇 第二部「ロボット学者はなぜ小説を書くのか?」(15:15 – 17:00)
趣旨説明:谷島貫太(二松学舎大学/討論司会)
問題提起:伊豆原潤星(二松学舎大学)/加藤隆文(大阪成蹊大学)/増田裕美子二松学舎大学
コメント:谷口忠大(立命館大学)/夏目房之介(マンガ批評家)

 

開催日時:2024年3月2日(土)13:00-17:00
会場:二松学舎大学九段キャンパス1号館中洲記念講堂
アクセス:
https://www.nishogakusha-u.ac.jp/about/campus/a7.html
事前申込(無料):下記Google Formからお申し込みください。(2月29日〆切 ※定員超過の場合は先着順)
https://forms.gle/ym3b5vBLRYeN7wsE6
イベントサイト:
https://www.nishogakusha-u.ac.jp/android/event/20240302.html
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東浩紀『訂正可能性の哲学』―確率と主体と身体と―

東浩紀の『訂正可能性の哲学』をようやく読むことができました。最初の感想は、これまでの氏の本のなかでもっともシンプルな議論になっている、というものでした。

 

この本は二部に分かれています。第一部が「家族と訂正可能性」、第二部が「一般意志再考」と題されています。乱暴にまとめると、第一部は「訂正可能性」という概念の原理を提示し、第二部はそこにおいて「主体」が持つ意味を考えるものになっています。そこで展開されている議論がこれまででもっともシンプルであると感じたのは、これも乱暴にまとめてしまうと、東浩紀がさまざまな形で扱ってきた〈確率〉の問題の地位が大きく変わっているというところに由来している、というのが僕の理解です。東浩紀はこれまで一貫して、哲学的な主張あるいは発見の核に、確率(論)的な想像力を置いていたように思います。しかしこの本では、世界そのものが確率論的あるいは統計学的に統治されるようになってきている中で、その東浩紀の思想の基本的な構図が反転しているのではないか、というのが基本的な見立てです。以下、説明していきます。

 

第一部の構図は、それこそシンプルです。

1)社会はヴィトゲンシュタイン的な言語ゲームでできている

2)そのゲームのルールは原理的に訂正可能である

3)その訂正可能性は、ルールの(エクリチュール的)持続によって未来に開かれている

これが「訂正可能性」の基本原理として提示されます。

その上で、共時的言語ゲームの議論の枠組みに通時的な時間軸を組み込むのが、クリプキの固有名論とアレントの「仕事work」をめぐる議論、という形になります。さらに、アレントの「仕事」がデリダ的なエクリチュールと結び付けられる、というのが理論的な手続です。

 

このように提示される理論的枠組みは、私見では、認知科学でのベイズ脳論や分析哲学での予測誤差最小化理論(ホーヴィ『予測する心』)の延長線上に位置すると思われます。意識が表象する世界は、確率論的に推定された世界像が、現実世界による反証を積み重ねて更新を続けた結果として、現時点では決定的な反証には出会っていないものとしてさしあたり通用しているものにすぎない、という世界観です。この見方では、意識に現われる世界は、背後に想定されるモデルの反証となる経験と出会ってしまえば即座に訂正される、一時的に維持されている過渡的なものとして位置付けられます。その上で、東浩紀が扱っているのは、そこにエクリチュールの観点が加わったときに成立する世界の現れ方をめぐる訂正可能性である、こういう整理になるのではないかと考えています。

 

第二部は、上述の訂正可能性プロセスの中に、〈主体〉がどのように関わっているのかを検討していきます。そこで召喚されるのがルソーであり、「一般意志」と「小さな社会」の対比です。その際、「一般意志」に統計学的なもの(そして確率論的なもの)が割り振られ、「小さな社会」に〈主体〉(とゲームのルールの訂正可能性)が割り振られる、という構図になっています。そして「一般意志」が批判され、「主体」に可能性が見出される(あるいは見出されるべきだと主張される)。

 

この構図が、ある種のシンプルさを呼び込んでいる、というのが僕の理解です。

 

これまでの東浩紀の本がある意味で(世間的に)難しかったのは、〈確率〉の側に可能性を見いだしていたからではないかと個人的に思っています。〈確率〉は、しばしば一般的な直感的理解からは乖離します。ただ東浩紀は、その難解さを〈誤配〉や〈観光客〉というわかりやすく具体的なイメージとペアにすることで、ちゃんと社会に届けていった。今回の本ではその構図が逆になっている。「訂正可能性」という言葉は、文字面だけだと言わんとすることはわかる気がするけど、しかし具体的なイメージを結びにくい。ただし今回は、本論自体が、確率を批判して人間的な主体に可能性を見いだすというわかりやすい構図になっていることで、それが問題になりにくい。つまりこれまでの、〈確率〉をめぐる直感的にわかりにくい論旨をメタファーでわかりやすくする、という関係から、直感的にわかりやすい論旨を直感的にイメージしにくい概念(訂正可能性)へと接続する、という関係へと構図が180度変わっているわけです。

 

僕自身の感覚としては、確率vs主体という構図ではなく、ビッグデータ的な確率論vs個々の主体と結びつく確率論、という、性質の異なる二つの確率論の差異、という構図の方がより可能性があるのではないか、という印象があります。

 

その点で、『訂正可能性の哲学』の議論の構図の中で本当は触れられるべきだった思うのが、〈身体〉という論点です。鈴木健のなめらかな社会論を参照しながら、東浩紀は0.2人間とか0.1人間的な分人に対して、1という統一性をもった主体に足場を置くことの重要性を強調しています。なぜ1が重要なのか。それは身体の単位がそうなっているからだ、と考えるのが僕から見ると自然に思えるのですが、ざっと読んだ限りでは〈身体〉という論点は本書、とくに主体をめぐる議論には登場していません。東浩紀という人は、「だって身体は一つじゃないか」みたいな身も蓋もない事実の哲学的含意を掘り下げることにきわめて長けている印象があるので、そこには鉱脈があったはずだと思えるのです。エクリチュールは分人と相性がいい。しかし身体はちがう。身体は、もちろんサイボーグ的な拡張は可能だけれど、やはり1という強烈な磁場を持っている。この〈身体の確率論〉をどう考えるのかというのが、『訂正可能性の哲学』のありうる出口ではないのか。

 

ともあれ、このように自由に縦横に書いてくれる哲学者/思想家が日本に必要であることは間違いないと思います。実際、今回も大いに刺激を受けることができました。シラス民としても、東浩紀さんにはいろいろ引っ張っていってもらいたいと思っています。なんだかんだ言って、『訂正可能性の哲学』非常に面白かったです。

『存在論的郵便的』についていまさら考える――東浩紀と確率と確率論

『統計の歴史』(オリヴィエ・レイ)という本を読んでいて、昔から漫然と考えていたことがクリアになった気がするので、唐突に東浩紀について、確率論と統計学という観点から書いてみます。

 

東浩紀の『存在論的郵便的』という本の貢献の核心は、(意味の)決定不可能性という現代思想的テーマに対して、「意味は決定できない」という否定的な回答の形式を、「どのように読まれるかは決定できないが、しかし何らかの形でいつか誰かに届く」という肯定的な回答の形式に組み替えた、という点にあると理解しています。そのうえで、その肯定性を表現する具体的なイメージとして郵便の比喩を召喚し、「誤配」という使い勝手のいい概念を提示した。で、そのイメージのしやすさと使い勝手の良さによって、広い影響力を獲得した。つまり、「誤配」という概念が、「意味は決定できない」と立ち止まって終わるのではなく、いろんな場面で使えてものごとを説明でき、また自分自身の振る舞いの方針を整理するのに実際に役に立った、という「肯定性」が『存在論的郵便的』の貢献の核心にあった、という整理です。

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