小林茂「テクノロジーの〈解釈学〉」草稿第三版メモ
情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授の小林茂さんの下記のウェビナーに参加するにあたり、
【ウェビナー】「テクノロジーの〈解釈学〉」から考えるAI
— AIアライメントネットワーク(ALIGN) (@AIAlignNetJP) 2024年6月12日
- 7/4 木 17時~ zoom https://t.co/xJAI6czChr
情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授の小林茂さん@kotobukiをお迎えします。 pic.twitter.com/GcZBIAaLQ6
Researchmap上に公開されている「テクノロジーの〈解釈学〉」草稿第3版に目を通したので、自分なりに考えをまとめたメモを置いておきます。
全体として
全体としては、ポスト現象学の問題系を軸に、ネオサイバネティクスとベルクソンの時間論を接続する理論的枠組みの整理、さらにそれを「作る」という実践と結び付けていく議論は、非常にクリアでとても勉強になりました。日本語で書かれた技術の哲学をめぐるテクストとしては、真っ先に参照されるべきものと言えるんじゃないかと感じました。
その上で、総論としての見取り図には異論がない一方で、ある程度まで解像度を上げていくといくつか疑問が出てくる、という印象でした。以下ではその疑問点を大きく3点に分けて整理していきます(2は疑問点ではなく感想です)。
1)「機械」という概念について
2)ベルクソンの時間論と確率論的生成モデル
3)知覚の進化とベルナール・スティグレール
あくまでもメモなので、全体として非説明的な不親切な文章になるかもしれません。
1)「機械」という概念について
本草稿には「機械」という言葉がたくさん出てきます。三木清の「道具技術」と「機械技術」の区別や、またネオサイバネティクスの章での人間と機械の対比など。登場はしませんでしたが、ギーディオンの『機械化の文化史』や坂本賢三の『機械の現象学』とかもそうですし、エリュールでもシモンドンでも、人間にとって疎外的に立ち現れるテクノロジーの次元を「機械」という概念で位置付けるのは、きわめて一般的な身ぶりかと思います。本草稿でも基本的にはその前提を共有して「機械」という概念を使っているように見受けられました。
結論からいうと、この伝統的な「機械」概念が、この草稿が扱おうとしている問いの射程を狭めてしまっている可能性はないだろうか、というのが一つ目の疑問でした。機械の機械性とはそもそも何なのか、というのは本当は非常に難しい問いで、人間と機械の二項対立に根差した機械概念は、機械性をめぐる哲学的な問いを抹消してしまうように思えます。
たとえば一般的な機械イメージからほど遠い、身ぶりの機械性というものを考えることはいくらでもできると思います。同じ字を繰り返して書く筆記の練習や、矢を射たりバットを振ったりといった練習、あるいは踊りを身につけるためのある振り付けを繰り返し練習するという場面には、ある種の機械性が見出せると思います。言葉を覚えるという場面でも、小さな子供が初めて聞いた言葉をわけもわからず反復してみる作業などにも機械性を見出せるでしょう。
本が手元にないので記憶になりますが、まさにこのような形で機械性の概念を拡張している議論を、哲学者のジャック・デリダが行っていた記憶があります。「タイプライターのリボン」というテクストのなかで、ポール・ド・マンの機械概念を取り上げつつ、機械性というものは技術的な反復可能性が成立する至る所に見出すことができ、機械でないものとの差異、機械とは異なるものとしての人間という定立が原理的に困難であることを示していた、という記憶があります。
そのデリダ的な機械概念の拡張(脱構築)を踏まえると、人間と機械という二項対立は成立せず、かなり乱暴に言ってしまうと、その二項対立の構図の中で理解されているよりは人間は機械的であるし、また機械は人間的である、ということになるかと思います。そしてさらにいうと、そのような機械概念に拠って立てば、機械によって疎外される人間、という疎外論的な構図も不可能となります。その上で、過程をすべて省略して述べてしまうと、本草稿で主張される「テクノロジーを未完了層に開く」という事態が可能であるためには、このような非二項対立的な機械概念が本当は求められるのではないだろうか、と直感的に考えています。疎外からの回復ではなく、人間はそもそも技術的なもの(≒機械的なもの)を異他性として抱え込んでおり、それを人間化していくプロセスだけが存在する、という見取り図が、ベルクソンにとっての人間化のプロセスとしての技術という理解とマッチするのではないか。
2)ベルクソンの時間論と確率論的生成モデル
本草稿では、ベルクソンの時間スケール論というものが参照されています。0から4という時間の四層が区別されていますが、問題となるのは層の間なので三つの段階が区別されえて、かつ最下層は現象として現れる手前の触発のレベルなので、人間にとって現象として意味をなすのは、現在という体験をなす1~2の段階と、経験的蓄積をなす2~3の段階の二つ、という整理になるかと思います。
過程を省略して結論だけ書きますが、この構図は、記号創発システム(あるいは自由エネルギー原理)におけるような確率論的生成モデルにある程度そのまま書き換えられるのではないか、という感想を持ちました。言葉遣いがあってるかわかりませんが、経験的蓄積の時間と現在の時間とはそれぞれ、世界理解のモデルとなるグローバルなパラメータと、世界の個別のサンプリングが実行される場面とに対応する。そして例外的に、サンプリングの結果が大きな驚きをもたらすようなものだった場合には、グローバルなパラメータを書き換える契機にもなる。
たとえば草稿では、《 Musicolour》という作品の受容体験を次のように整理しています。
《 Musicolour》はパフォーマーが発する音に反応して照明を変化させ ます。音に反応して照明が変化するという体験は新奇なものであるため、階層1–2の相 互作用が誘発され、パフォーマーに〈時間的内部〉が開きます。もしこれだけであれば、 単なる感覚–運動系に留まり、やがていったん開いた〈時間的内部〉は閉じてしまいま す。しかしながら、《Musicolour》には以前の刺激がどうであったかを「記憶」する仕 組みがあるため、パフォーマーが同じことを繰り返していると「飽きる」ことで反応し なくなってしまいます。このため、パフォーマーは過去における自身の演奏経験を想起 し、次にどんな反応が返ってくるかを予想しながら演奏を続けることになります。これにより、階層 2–3で新たに〈時間的内部〉が開き、階層1–2に開いていた〈時間的内 部〉が閉じ、階層2–3へと移行します。さらに、《Musicolour》とのセッションにより パフォーマーにとってこれまでにない演奏の瞬間が生まれると、階層2が階層3を参照 するだけでなく、階層3から階層2を参照し、階層3の再編成が生じます。これが繰り 返されることにより、パフォーマーの作品に対する意識は7時間にもわたって持続して いたのだ、と。
わたしたちの現在の体験は、世界についてのグローバル=包括的な仮説を前提としたうえで行われ、ほとんどの場合はその前提に収まる範囲内で経験が進んでいきますが、ときおりそういった前提そのものを動揺させるような体験が存在します。草稿がベルクソンの時間論を使って説明しているそのような体験のプロセスは、確率論的生成モデルにおける内部表象の更新という観点からも説明できるのではないか、という印象を持ちました。
3)知覚の進化とベルナール・スティグレール
ベルクソンについて議論される箇所では、「知覚の進化」というキーワードが出てきます。このキーワードによって指し示されようとしている事柄が重要であるのは同意なのですが、しかし概念としては「知覚の進化」というのは、きわめてあいまいなものに留まっている印象です。というよりも、概念の手前の、そこに考えるべき問いがあることを指し示す標識のようなものとしてキーワード化されているのが「知覚の進化」ではないか。つまり、「知覚の進化」と呼ばれているものはそもそも何なのか、ということをさらに問う必要があるのではないか。
その上で、その問いに答える議論は既に存在している、というのが僕の理解です。具体的にはベルナール・スティグレールの『技術と時間2』は、まさに「知覚が進化する」という主張を可能とするための哲学的な探求こそをやっていると僕は考えています。スティグレールはそこで、ベルクソンの時間論をフッサールの時間論とを比較したうえで後者をさらに検討していきます。
細かなところを省略すると、ベルクソンの時間スケール論で階層1~2とされた段階と、階層2~3とされた段階は、フッサールにおいては第一次過去把持と第二次過去把持の区別に当たる、とスティグレールなら整理するだろうと思います。その上でスティグレールは、技術的に外在化された記憶の層である第三次過去把持が、第一次過去把持と第二次過去把持を重層決定している、という見取り図を提示します。さらにスティグレールは、デリダの『声と現象』の議論を踏まえた上で、フッサールの「知覚」概念を批判して、知覚それ自体が技術の次元によって代補されている、ということを主張します。
この議論は、技術を進化論的な見取り図の上に位置づける後成系統発生という概念と結びついていて、それゆえ知覚そのものが進化する、ということがどういうことであるのかをより解像度高く整理している、と僕は理解しています。
まとめ
僕自身がもともとベルナール・スティグレールという哲学者にずっと興味を持っていたこともあり、デリダ/スティグレールの観点からの読解、という位置づけになるかと思います。ただスティグレールは、草稿で繰り返し参照されているユク・ホイの師匠であり、たとえば上に挙げた「機械」や「知覚の進化」については、ユク・ホイもかなり近いコメントをするのではないか、という気がします。