東浩紀と流通の問題:平和論のオーディエンスについて
『ゲンロン17』に掲載されている東浩紀の論考「平和について、あるいは「考えないこと」の問題」について、簡単なメモをまとめてみます。文章全体は多くの側面をとても豊かに含んでいますが、その細かなところに踏み込むことはせず、論考全体についての大雑把なメモです。
論考の中心にある「平和とは考えないことだ」という主張は、非常にしっくりくるものでした。個人的には、コロナ時代における「健康とは考えないことだ」と同型の問題なのかも、という気もしています。僕自身はピラミッドのモデルで考えていて、戦争とか衛生とか生存に関わるレイヤーがピラミッドの基層にあって、ピラミッドを上昇していくと、生存という問題の忘却に基づいた文化の様々な諸層が可能になる。しかしそれはあくまでも忘却であって、足元を掘ればいつでも生存の基層が見つかる。実際、そこを担っている人たちは忘却の裏側には常に存在しているわけです。このモデルに基づくと、カール・シュミットのいう例外状況というのは、社会の現在地を、生存が問題となるピラミッド内の下層にあるのだと遂行的に主張する宣言と結びつくものだ、という理解になります。
このメモで書こうとしているのは、それとは少し別のことです。論考を読んでいて一番感銘を受けたというか、なるほど!と思ったのは、誰のための平和論なのか、という視点でした。大文字の平和論というものがあるとすれば、それは誰もがそれを考えなければいけない、という普遍的な義務のような平和論になるかと思います。対して東さんの平和論は、特定の誰か(たち)のための平和論として組み立てられている、という点に驚きを感じたのでした。たとえば、現実の平和の前提となる安全保障の専門家にとって、「平和とは政治の忘却である」と主張する平和論はたぶんあまり意味を持たない。大文字の平和論は、そうした人たちのためにある。
論考でも書かれているように、誰もがそうした専門家であるわけではない。そのような、ある意味何者でもないという立場から平和を考えようとするとき、そこで求められる平和論もまた別のものになる。東さんの論考の前提にはこうした考え方が明確にあり、だから、誰のためにどうした平和論を考えるのか、ということをめぐる徹底した思考がとてもはっきりと見て取れる。ここが一番感銘を受けるとともに、発見があった点でした。
では東さんが書いているのは誰のための平和論なのか?おそらく、「庶民あるいは大衆のための平和論」というのとは違う。きわめて平易に書かれているとはいえ、普段本を読む習慣がまったくない人にはやはり内容として難しいだろう。かといって、それなりに難しい本を読む習慣がなければ理解できない、という文章でもない。そうした専門書よりははるかに間口が広い。本を読む習慣のない人たちと、それなりに難しい本を読む習慣のある人たちの間の広がるどこかのレンジが、この平和論のあて先となっているように思われます。
ところで、僕は『ゲンロン17』を注文して購入したわけではありません。ゲンロンの友の会の会員なので、自動的に送られてきたのです。友の会の会員が何人いるかわからないけど、同様な形で多くの人たちの手元に『ゲンロン17』が届いているはずです。つまり、そういうことです。東さんの論考は、ある層を宛先とした平和論であるというだけでなく、その宛先をゲンロンの経営を通して作り上げつつ届ける、という二重のことをやっている。ただしそれはサロン的な閉じられたお客さんに消費されるための言葉を生んでいる、ということではない。『ゲンロン17』は一般の書籍として流通するし、またこの論考自体も東さんの単著に収録されるようです。友の会は足場で、さらなる誤配の回路が合わせて設計されているわけです。
東さんは「郵便的」という概念で有名になった思想家でもありますが、僕は以前から、この概念のポテンシャルはいまだに十分に展開されていない、と感じていました。郵便は誤配されるというけれど、それは完全にランダムに誤配されるわけではない。郵便の具体的な制度が、どのような誤配が起こりうるのかの可能性の条件を作り上げている。海に放流された瓶の中の手紙といった誤配のイメージは、拡散しすぎて生産性を失ってしまう部分がある気がします。
以前、東さんの思想について確率という観点から考えてみたことがありましたが、確率と合わせて、もう一つ重要なキーワードがあると考えていました。それが〈流通〉です。誤配はランダムに起こるのではなく、流通の構造に即してそこからの逸脱として生じるのであり、だから誤配はある程度まで設計可能なはずです。そしてゲンロンというのは、思想が流通する仕組みを設計することで、誤配の可能性の条件も合わせて設計する実践である、と僕は理解しています。
英語圏のメディア産業論では、メディア流通論の一環としてaudience manufacturingということが語られます。オーディエンスを作り出す、という流通の機能を捉えようとする概念です。郵便や誤配という概念は、流通の制度と、そこに結びついたaudience manufacturingという契機と合わせて理解されるべきだと考えています。ゲンロンは、まさにこのaudience manufacturingをやっている。そしてこの問題設定は、ある社会の中で思想を存在させるためのビジネスモデルはどうあるべきかという問いと不可分です。
『25年後の東浩紀』という本の中で、森脇透青さんが共同体とその継承という問題を取り上げていましたが、経営という観点が掘り下げられないと東浩紀論としては不十分じゃないかと感じました。観光客がそうであるように、ゲンロンが作り上げているオーディエンスはお金を払うお客さんです。お金が介在する関係だからこそ可能な広がりがある。『観光客の哲学』ではこの点がある程度掘り下げられていたかと思いますが、本来であれば、郵便的や誤配の概念を掘り下げていった先に見つかるのが「お客さん」だったはずだ、というのが僕の理解です。
色々書きましたが、要は東さんの論考は特定のオーディエンスに向けた平和論で、そのオーディエンスはゲンロン自体が作り上げていっている存在ではあるが、同時に誤配の回路も設計されている、というそうした郵便的な場の中で組み立てられているのではないか、ということです。批評空間的な言説の「お客さん」がどのくらいいたのかはわかりませんが、ゲンロンはそれよりももっと大きな広がりをもつ思想の「お客さん」を作り上げようとしている気がします。そうしたaudience manufacturingのダイナミズムに組み込まれるように書かれているのが今回の平和論で、そこにチューンした言葉を紡ぐことができるというのが、思想家という存在なのだろうとなんとなく考えています。