ネオ・サイバネティクスのプラグマティズム(1)

西田洋平さんの『人間非機械論』を踏まえて、「ネオ・サイバネティックスプラグマティズム」、という問題について書いてみます。自分なりにかみ砕いて書くので、用語とか説明のロジックはかなり勝手流になっていると思います。。

ファーストオーダーとセカンドオーダー

ネオ・サイバネティックス(以下ネオサイバネ)の基本的な出発点は、「作動的な閉じ」という考え方です。わたしたちは外的世界/環境に直接アクセスすることはできない。私たちが生きる世界は、私たち自身が内的なロジックで作り上げているものでしかありません。ダニにはダニの世界がある、というユクスキュルの環世界という捉え方と通じる考え方です。ただしわたしたちは自由に自分の世界を作り上げられるわけではない。私たち自身が作り上げている世界は環境に制約を受けており、世界はその制約内でしか構成されえない。でも、環境を直接認識することができないのに、その環境からの制約は受けるというのはどういうことなのか?

ここで重要になるのがファーストオーダー(の観察)とセカンドオーダー(の観察)という区別です。ファーストオーダーの視点では私たちは、環境そのものではなく、自分が作り上げている世界しかみることができない。その世界は、環境との対応関係はまったく担保されていない。パースであればこの〈世界〉と〈環境〉との関係を、brutalな衝撃としての経験、という概念でつなぐのだろうと思いますが、おそらくネオサイバネでは、そうした存在論的主張につながりそうな概念は避けられる。代わりに提起されるのが、セカンドオーダーの観察という考え方です。

ある個体は自分自身の世界を生きていて、その世界が自分の外側に存在していると信じている。そして人間は、そのように存在していると信じている世界を言語を介して相互に参照しながら社会生活を営んでいる。この素朴な存在論の延長線上に科学的な観察も位置付けられ、それらがざっくりファーストオーダーの観察と呼ばれる、という風に理解しています。セカンドオーダーの観察は、そのようなファーストオーダーの視点のなかに生きている個体の挙動を、自分が信じる世界を自分で作ってその中で生きている、というプロセスとしてメタな視点から観察する、という立場に立つことを指します(たぶん)。こうした立場を打ち出したのがハインツ=フォン・フェルスターで、その主張は『生命非機械論』できわめてクリアに解説されています。モノの見え方がガラッと変わるのが気持ちいいので、興味のある方はぜひ読んでみて欲しいです。

観察とコミットメント

以上が、ネオサイバネのもう一つの重要要素であるオートポイエーシスを省略して、ファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察に限っての自分なりのまとめです。ここで、〈観察〉と、観察への〈コミットメント〉という区別を導入してみたいと思います。

観察という言葉は、一般的には観察者と観察対象との隔たりを前提としつつ、観察するということ自体をある種の目的として行われる行為のことを指すかと思います。科学的な観察が代表的なものだと思いますが、初めて来た場所を観察するとか、怪しい人間を観察するとか、いったん立ち止まって、対象を対象として精査する、というような行為も広く含みそうです。ただ、ネオサイバネにおけるファーストオーダーの観察は、さらに広い意味で使われている印象です。社会的な生活の中で、相互に参照が可能な外界としての世界が前提されているとき、その根底にあるものとしてファーストオーダーとしての観察が見出される、というイメージです。ひとまずこのような観察を、社会生活の根底で用いられている観察という意味で、〈根底的観察〉と呼ぶことにします。

ここで疑問が生まれます。このような根底的観察としてのファーストオーダーの観察を観察するとは具体的にはどういうことなのか。科学的な観察行為のように、「あそこで観察してるぞ」みたいには指し示すことが難しい観察が問題となっているわけです。そこで導入したいと思うのが、観察への〈コミットメント〉という概念です。わたしたちの日常生活での振る舞いの多くは、意識的に観察してはいなくても、根底的観察を前提としていると言えるかと思いもいます。このように、根底的に観察を前提とするという態度のことを観察への〈コミットメント〉と呼びたいと思います。このように考えると、セカンドオーダーの観察が具体的にどのように進められるのかがイメージしやすくなる気がします。

「あそこの八百屋の大根が安かった」とおしゃべりしているおばちゃんたち(昭和想定)は、狭義の観察はしていないけれど、根底的観察を前提としたコミュニケーションをしているという点で、観察にコミットしている。セカンドオーダーの観察とは、現実には、ファーストオーダーの観察にコミットしている発言や振る舞いを通して、その根底で機能しているはずの観察を観察する行為である、と言えるのではないか。科学の例で考えても、科学の実践の中で狭義の意味での観察と呼べるのはごく限られた一部でしかありません。しかし、論文を書いたり、それをもとに発表したり、さらにその内容を踏まえて授業をしたりといったあらゆる営為は、明らかにファーストオーダーの観察にコミットしています。コミットメントという(ブランダム的?)概念を導入すると、セカンドオーダーの観察という作業の進め方がより具体的にイメージしやすくなる(気がする)。

コミットメントとプラグマティズム

ところでコミットメントという概念を持ち出したのには、大きく二つの理由があります。一つはすでに書いたように、セカンドオーダーの観察という行為が何をするのかがより具体的にイメージできるようになる(気がする)から。もう一つはこの概念が、ネオサイバネとプラグマティズムとをつなぐ導線になると考えているから。

コミットメントというと、コミットするかしないか、という選択の対象のような印象を与えます。しかし僕の理解では、(ブランダムはわからないけど)プラグマティズムの基本的な発想では、コミットメント(にあたる事態)というのは選択の対象ではなく、つねにわたしたちはある仕方で世界にコミットしている、というわたしたちの存在の根本的な在り方を説明する概念として位置付けられています。だから問題は、コミットするかしないかではなく、コミットの在り方をどのようによりよい形で修正していくか、でしかありません。

コミットメントをめぐるこのプラグマティズム的な考え方と、ネオサイバネのファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察という区別との関係を考えてみます。ネオサイバネ側から見ると、プラグマティズムはファーストオーダーの観察のなかで完結して議論を展開しているようにも見えるかもしれません。プラグマティズムは、コミットメントの根底にある観察を、セカンドオーダーの観察という形で相対化する立場を確保できていないからです。しかし事情はそれほど単純ではありまsねn。

たとえばネオサイバネの基本的な前提は「作動的な閉じ」であり、個体は環境に直接はアクセスできないと考えます。その態度は、真理の対応説の放棄という形で現れます。環境をそのまま写し取った表象という形での表象主義的な真理は存在しません。しかしこの考え方は、プラグマティズムの基本的な前提でもあります。プラグマティズムにはもちろんきわめて多様な論者がいますが、この点は一貫して共通しているようです(詳しくはシェリル・ミサックの『プラグマティズムの歩き方』参照)。出発点は、ネオサイバネもプラグマティズムも変わるところがありません。

そこから出発して、ネオサイバネはセカンドオーダーの観察にたどり着く。対してプラグマティズムはどうか。これは僕自身の解釈ですが、プラグマティズムの立場は、ファーストオーダーの視点で観察される世界は環境との対応という点では確かに根拠がないが、しかしそこでの根底的観察にコミットすることでしか生きるという事態は成立しない、と考えるのではないか。もちろんこれはネオサイバネの考え方とも一致すると思います。個体は作動的に閉じているので、その閉じの中で生きるということは、その閉じられた作動に選択の余地なくコミットすることでしかない。その上でネオサイバネは、そのコミットメントの在り方をセカンドオーダーで観察する視点を提案します。

おそらくプラグマティズムは、「作動的な閉じ」をめぐるネオサイバネの基本的な前提に異論をはさむところはほとんどないだろうと思います。なぜならプラグマティズムも同じように考えているから。ただ、その前提から出発して「何をするべきか」という点で大きく進む先が異なる、という気がします。プラグマティズムは、セカンドオーダーの観察という視点のメリットについても何も異論をはさむことはないはずです。しかし同時に、ファーストオーダーの観察にコミットしながらやらなければならない仕事もたくさんある、と主張するはずです。なぜなら私たちが生きるのはファーストオーダーの世界であり、その世界で使われる概念的道具立てを少しでも良いものにする、という努力は絶対に不可欠だから、と。

ノイラートの船とネオサイバネ

「ノイラートの船」という有名な比喩があります。検索して引っ掛かった説明をそのまま載せます。

ウィーン学派の中心人物の一人、 オットー・ノイラート(1882-1945)が『アンチ・シュペングラー』(1921) で用いた比喩。彼によれば、 知識の総体というのは港の見えない海上に浮かぶ船のようなもので、 そのような状態でなんとか故障を修理しつつやっていかなければならない。 「われわれは船乗りのようなもの--海原で船を修理しなけばならないが、 けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの--である」。

この比喩は、知識に関する基礎づけ主義を批判して用いられている。 すなわち、基礎づけ主義によれば、ある批判不可能な土台(となる命題)があり、 その上に建てられた体系(諸命題)も、 土台から論理的に導かれているかぎり批判を受けつけないものである。 これに対し、ノイラートの船の比喩が含意しているのは、 知識には土台は存在しないこと、 また、全体が沈んでしまわないかぎり、 部分的にはどの部分であっても修理をすることが可能であることである。

https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/neurath's_boat.html

この船は、海のことを正確に理解して浮かんでいるのではなく、なぜかわからないけどとにかくこれまで沈まないでこれた船です。海=環境への直接のアクセスを持たずに、しかし同時に海=環境の制約を受けながら、作動的に閉じて作り上げられた船です。わたしたちはこの船の中でしか生きることができません。わたしたちはこの船を絶えず修理しながら生きていかなければならないのですが、海=環境への直接のアクセスができないので、船の在り方の最終的な正解もわかりませんし、また修理の道具も船の上にすでに存在するものを使い回すことで調達するしかありません。プラグマティズムは、この船の上で何をするべきかを考える、という立場だと思います。船の形の最終的な根拠はないし使えるのも船の上に既に存在している材料だけだけど、その上で何ができるかを考えることでしか、哲学の役割がない、というそういう割り切りがあるのだと思います。

ではこうしたプラグマティズムの考え方に対して、ネオサイバネはどう位置づくか。きわめて比喩的な説明ですが、僕の感覚だと、ネオサイバネは時間を止める方法を発明した。時間を止めて、船の外に視点を置いて、船と海の関係を一時的に観察することを可能にした。ここで重要なのは、時間が止まっているので、船と海とを外から観察している間は観察主体は何もできない、ということです。そしてセカンドオーダーの観察をやめると、視点は船乗りの一人称に戻る。

生きるには船の上での根底的観察にコミットしている必要があり、その観察にコミットしないと、船の上で使える道具は何も使えないし、道具を改良することもできない。だから根底的観察にコミットしたうえで、またそれにコミットしながら何ができるかの思想が必要になる。これがプラグマティズム。ではセカンドオーダーの観察には何の意味があるのか。これも感覚的な説明になりますが、船乗りは、セカンドオーダーの観察で観察したことを覚えておくことはできる。覚えておくことはできるけど、その観察で光景はそれ自体では使えない。使えるようにするには、そのためには、セカンドオーダーで観察できた光景を、船の上にある材料と道具が織りなすまったく別のロジックへと翻訳する特別なプロセスが必要になる。そしてそのプロセスは、おそらく職人芸的な特殊な技能を要求する。

ということで、最後はきわめて感覚的な説明になってしまいましたが、言いたかったことはシンプルで、ネオサイバネとプラグマティズムは、前提を完全に共有しながら、セカンドオーダーの観察の認識利得を追求するか、それとも(ファーストオーダーの)コミットメントの内部での修正利得を追求するか、という方向性の違いがあるだけではないのか、ということでした。その上で、ネオサイバネの考え方をポテンシャルを現実社会のなかで最大限に発揮するには、セカンドオーダーの観察がもたらす認識利得をファーストオーダーのコミットメントに翻訳するためのプロセスも合わせて考えなければならないのか、ということをぼんやり考えています。この方向性につけた当座の名前が「ネオサイバネのプラグマティズム」です。ひとまず導入。