ロザリンド・クラウスの指標概念の受容をめぐる問題

昨日の記事

voleurknkn.hatenablog.com

 

への補足です。

クラウスとシフター

 日本メディア学会での発表では、ロザリンド・クラウスの指標論については、メディア研究における指標概念の扱いのテンプレを作った、というような形でチラッと触れるに留まりました。でもこの整理は、本当は全然正確ではない。クラウス自身の指標概念の扱い方はもっと複雑で、その中の一部で少し前の記事(参照「指標とトリノの聖骸布」)で紹介したような指標概念が提示されている、という位置づけになります。メディア研究における指標概念のテンプレを作っていったのは、クラウスの指標論のうち、物質的痕跡としての指標概念の提示の部分だけを参照していったメディア研究のその後の議論である、と述べる方が正確だと思います。

 たとえばクラウスの指標論は、実はヤコブソンのシフター論から始まっている。でもこのことについては全然触れられていない印象があります(ちゃんと探せばあるかもですが)。しかしマルセル・デュシャン論としては、むしろそちらの方に重要性がある。にもかかわらずその側面が指標をめぐる議論からごっそり抜け落ちている。そこに孕む問題は何なのか、ということを考えるのも今回の発表の当初の目的の一つでした(時間の関係で省略しましたが)。ただしこの脱落には、おそらくクラウス自身にも大きな原因がある。

 クラウスによるシフターの取り扱いは、きわめてアクロバティックなもので、ヤコブソン自身の議論から大きく逸脱しています。そこで援用されるのはラカン精神分析で、デュシャンの作品に現れる人称を、シンボリックなものへの参入をめぐる芸術的な実践として捉えようとします。ヤコブソン自身がシフターによって扱ったのはあくまでも「指示reference」の問題系であって、その枠内でコンテクストによって指示の参照先が切り替わる人称も扱われている、という位置づけが妥当だと思います。そこにはひとまずシンボリックな次元への参入という問題系は直接的には扱われていません(読み込むことは可能だけれど)。そしてクラウス自身は、ヤコブソンのシフター論をラカン精神分析の枠組みで扱う際の飛躍について何も説明せずに議論を進めていくので、読み手を置いてけぼりにしてしまって、その後の議論でもあまり注目されることがなかった、ということなのかと個人的には想像します。

 ところで、シフター論とシンボリックなもの、あるいはイデオロギーの次元との接続という点では、まさにそれを主題的に掘り下げていったのが、クラウスの指標論とほぼ同時期に発表された、ヤコブソンの弟子で言語人類学者であるマイケル・シルヴァスティンによるシフター論でした。メディア研究の文脈ではほぼ無視されてきた(というかおそらく存在もほとんど知られていない)その議論に光を当てる、というのも発表の当初の狙いの一つでしたが、こちらも発表では完全に省略しました。

メディア研究における指標概念受け止めのパラダイム

 前の記事にも書いたように、メディア研究における指標概念の問題は、指標を記号それ自体の性質によって特徴づけようとする理解枠組み自体である、というのが今回の発表の趣旨でした。そして、記号と対象との二項関係ではなく、解釈項も含めたパース的な三項関係のなかに指標概念も置き直す必要がある、と主張しました。メディア研究における指標概念は、つねにパース的な三項関係を記号×対象の二項関係に還元して理解されてきた、というこの構図を捉えるには、指標概念がメディア研究に輸入されてきたその時点にどういうことが起こっていたのかを検討する必要があるのだろうなと感じています。具体的にはピーター・ウォーレンとロザリンド・クラウスのパースの指標概念の解釈の検討です。

 ここでは細かい議論はできないですが、現時点でのざっくりした印象では、ウォーレンもクラウスも、基本的には大陸的な記号論(そのベースはソシュールシニフィアンシニフィエ二項関係)枠の中にパースの指標概念を外挿する、という作業を行ったという印象を持っています。ウォーレンの場合にはクリスチャン・メッツ、クラウスの場合にはロラン・バルトが参照されていますが、1976年という時点で、映像研究/芸術批評の文脈で構造主義的な記号論のモデルを英語圏に輸入する際に、合わせてそのフレームワークの中にパースの記号タイプをめぐる議論を、そのsemioticの体系から切り離して組み込んだ、ということが行われたのではないかと考えています。その時点で、パースの三項関係はソシュール的な二項関係に切り詰められ、そしてパース自身の書き方にもおそらく誤読を招くところがあり、指標は記号と対象という二項関係に還元され、記号自身の性質のうちに指標性の根拠が求められる、という指標論の型が作られた。つまり、シニフィアンシニフィエモデルは維持されたまま、シニフィアンのタイプを拡張し、そこにある種の物質性を付与する外付けの装置としてindexが据え付けられた(iconはまた別種のシニフィアンのタイプ)という構図です。そしてその型が反復されている。

 他方、ヤコブソンの弟子であるシルヴァスティンは、大陸記号論的な二項関係への批判でもある、解釈という出来事に着目する語用論的展開の文脈の中でパースの指標概念を捉えていきました。というか、ヤコブソンのシフター論自身がまさしくそうした語用論的展開のなかで生み出されたものなので、そちらの方が明らかに正統的な解釈で、クラウス的な捉え方の方が歪曲に近い乱暴な解釈だと言えそうです。ということで、指標概念を捉える際の二項関係モデルを三項関係モデル置き換える際に、シルヴァスティンの指標概念を取り上げる、ということをしようとしたのでした。ただメディア研究の文脈では、パースの三項関係からいびつに切り離された指標概念が歴史的経緯の中で一般的になってしまっているので、なかなか難しいところはあるだろうなということは強く感じます。

アルゴリズム的インデックス性

 発表の直前、門林岳史さんに声をかけていただき(前日も深夜までご一緒させていただいていましたが)、「発表スライドを見たけど、自分の論文が引用されていないね」とご指摘を受けました。google scholarベースで英語文献を中心に先行研究を整理していたこともあり、『ポストメディア・セオリーズ』に収録されている門林さんのインデックス論が抜け落ちていたのでした。冷や汗をかきました(冷汗)。

 で、改めて確認しました。僕の理解では、門林さんのインデックス論も、基本的には記号自体の性質のうちに指標性の根拠を探す、という枠組みでの議論なのではないかと感じました。論文の最後には、アルゴリズム的指標性について次のように述べられています。

 確かにこうしたデジタル画像は現実の世界を忠実に写しとったイメージとは言えないが、人の手を介さず自動的に生成されたイメージであることには変わりがない。iPhoneポートレートモードにせよ、インスタグラムやSNOWのフィルターにせよ、ユーザーがすることはパラメーターを調節したりフィルターを選択することのみであり、あとはアルゴリズムが自動的にイメージを加工してくれる。そして、インデックス性とは人の手を介さない物理的で因果関係に基づく記号性のことなのだから、こうしたデジタル画像は依然としてインデックス性を備えている、と。むしろ、アナログ時代になされていた写真の修正や加工よりも、人の手を介していない分インデックス性は損なわれていないのだ、とすら言うこともできるだろう。(門林岳史「映像理論:デジタル時代のインデックス性」『ポスト・メディアセオリーズ』p.203)

 アルゴリズムレベルでの指標性を位置付け直す試みという点では、前回の記事で触れたSodermanやWillemenの議論もあり、それぞれニュアンスは違いますが、表現の技術的プロセスも含めたオブジェクトレベルの性質で指標を理解しよう、という枠組みについては共通してるのではないかと思います。

 前回の記事で書いたように、日本メディア学会での発表は、概念の再解釈に焦点を当てたがために、門林さんの議論含め、指標概念を通して捕まえようとされている事態や問いに焦点を当てることができていませんでした。そのあたりを前回の記事でごくごく簡単に補足しようと試みたのですが、三項関係のなかに置き直した指標概念によって、これまで「メディアの物質性」として探求されていた「問い」にもちゃんとアドレスできるはずだ、と個人的には考えています。たとえば門林さんの論考では3DCG映画についてのレフ・マノヴィッチの次のような主張を紹介しています

コンピュータ・グラフィックスが現実を偽造するのに成功したと考える理由とは、私たちが過去一五〇年を経て、写真とフィルムの映像を現実として受け止めるようになってきたからである。

ここでは結局、3DCG映像の効果が、表現のオブジェクトレベルではなく、人々が有する習慣的な解釈の枠組みで説明されています。まったく同様のことを、発表スライドには載せたけど言及はしなかった箇所でトム・ガニングも述べています。

デジタル的に操作された写真に特有の芸術的かつ享楽的な喜びは、潜在的には正確性を持った表象としての写真に対する継続的な信頼に依拠している。(トム・ガニング『映像が動き出すとき 写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』2021)

これらの主張をを直感的な印象としてではなく理論的に位置づけるためには、指標を解釈過程と結びつけて位置づける必要があるはずです。ただまだ整理が不十分なところもたくさんあると思うので、継続的に色々なフィードバックをもらいながら作業を進めていきたいと思います。