安野貴博氏(チームみらい)への批判とラベリングの暴力
はじめに:暴力と「言葉」の距離
昨日、チームみらい党首・安野貴博氏のパートナーによるX(旧Twitter)への投稿が、大きな波紋を広げました。自身が暴行を受け、その際に「ナチス、差別主義者」といった罵倒を浴びせられたという、衝撃的な内容でした。この出来事をめぐり、SNS上では様々な議論が巻き起こりました。
一方で、この事件の背景には、安野氏の主張に対するネット上での過熱した批判があるのではないか、という指摘があります。
他方で、政策への批判と、実際の暴力行為を直接結びつけることへの強い反論もみられます。
本記事ではこの問題を、「主張に対する健全な批判」と「個人への否定的なラベリング」を明確に区別し、両者が全くの別物である、という観点から整理してみます。
なぜ「批判」と「ラベリング」は根本的に違うのか?
議論の補助線として、少し哲学の話をさせてください。 ロバート・ブランダムという哲学者が提唱した考え方が、この問題を理解するヒントになります。
彼の理論をざっくり要約すると、こうです。
私たちの発言には、常に2つの要素がセットになっています。
- コミットメント:自分が「言ったことを背負う責任」。ローン契約でサインするようなものです。
- エンタイトルメント:その発言によって「次に何を話す資格があるか」。言わば、次の対話に進むための“入場券”です。
この「入場券(エンタイトルメント)」の観点から、「批判」と「ラベリング」の違いを見てみましょう。一目瞭然です。
【健全な批判】
◎ 目的:主張をより良くするための対話
◎ やっていること:「あなたの主張のここがおかしいので、修正しませんか?」と提案する。
◎ 結果:相手に次の対話への「入場券」を渡している。議論は続く。
【排他的ラベリング】
× 目的:相手を言論の場から追い出すこと
× やっていること:「お前は差別主義者だ!」と人格にレッテルを貼り、断罪する。
× 結果:相手から**「入場券」を奪い取り、対話のドアを閉ざしている**。
このように、人格へのラベリングは、対話の可能性そのものを破壊する行為なのです。
安野氏の事例:いかにして「批判」は「ラベリング」にすり替わったか
今回の安野氏のケースに、この整理を当てはめてみましょう。
発端は、安野氏が掲げた保険適用に関する主張でした。 これに対し、「努力の有無で患者を『選別』する思想は危険ではないか」という、政策内容への正当な批判が上がりました。
これは本来、建設的な対話に繋がりうる「健全な批判」だったはずです。
しかし、SNSでの議論が過熱する中で、この論点はいつしか横滑りしていきます。
主張への批判が、そのまま安野氏個人への人格攻撃にすり替わったのです。 「危険な思想だ」から、「彼自身が差別主義者だ」「優生思想の持ち主だ」という断定へ。
これはもはや、対話ではありません。 「差別主義者」という烙印は、「あなたに発言する資格はない」と宣言し、社会的な言論空間から相手を排除しようとする介入に他なりません。
もちろん、こうした言葉がすぐに物理的な暴力へ繋がる、と断定はできません。 しかし、ジェノサイド(集団虐殺)と言語の関係を研究した哲学者リン・ティレルも指摘するように、対話を拒絶するネガティブなラベリングの横行は、その対象への暴力を許容するような“空気”を生み出す危険性をはらんでいます。
まとめ:民主主義のために、「批判の技術」を磨こう
今回の騒動は、「健全な批判」が、対話を閉ざす「人格へのラベリング」へと変質していく典型的なプロセスを私たちに見せつけました。
民主主義にとって、公的な主張への批判は不可欠です。 しかし、それと同じくらい「批判の技術」も重要です。
感情的に相手を断罪し、レッテルを貼ることは、対話とは真逆の行為だということを、私たちは理解する必要があります。
Twitter(現X)のようなプラットフォームは、構造的に瞬間的なラベリングを助長しやすい側面があるかもしれません。
それでも、私たち一人ひとりが「対話の入場券」を安易に奪い取らないよう意識し、批判の技術を磨いていくこと。 それこそが、分断を乗り越え、より良い社会を築くために不可欠なのだと思います。
【生成AI詩】「もしも僕の名字が」
生成AIを使って信じられないくらいしょうもない詩を書きました。
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「もしも僕の名字が」
もしも僕の名字が前田だったら、娘の名前はエマにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が中田だったら、娘の名前はカナにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が上枝だったら、娘の名前はエミカにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が東風だったら、娘の名前はマチコにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が木村だったら、娘の名前はラムキにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が五十嵐だったら、娘の名前はシラガイにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が五百旗頭だったら、娘の名前はベキオイにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が瑞慶覧だったら、娘の名前はンラケズにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がGrethだったら、娘の名前はHtergにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がVondelだったら、娘の名前はLednovにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がBarclayだったら、娘の名前はYalcrabにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がClintだったら、娘の名前はTnilcにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がMukhlisだったら、娘の名前はSilhkumにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がNguyenだったら、娘の名前はNeyugnにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がTadesseだったら、娘の名前はEssedatにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字がZhouliだったら、娘の名前はIluohzにしよう。回文になるから。
もしも僕の名字が世界だったら、娘の名前はイカセにしよう。それが正しい名前だから。
全気候現象と感情をシンクロさせられるニキ、ChatGPTで爆誕
「空は自分の気持ちを分かってくれる」って、めっちゃ恣意的に感情を空に投影してません?ってことで空への感情投影スキルカンストさせてみました。どんな気候現象にも自分の悲しい思いを仮託できてしまう人物がChat-GPTで爆誕。どんどんエクストリームになっていきます。
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大雨
「きっと空は、私の涙を見て、自分も泣かずにはいられなかったんだろう。どんなに泣いても足りないほどの悲しみを、代わりに空が流してくれているのかもしれない。」
小雨(霧雨)
「空は私を気遣って、大泣きするのではなく、そっと涙を流してくれているんだ。慰めるように、静かに降るこの雨は、私が無理に笑わなくてもいいと伝えてくれているのかもしれない。」
雷を伴う嵐
「空は、私の代わりに怒ってくれているんだ。何かに対して叫びたい気持ち、壊してしまいたい気持ちを、雷が代わりに轟かせている。風は、胸の中のわだかまりを吹き飛ばしてくれようとしているんだ。」
曇り空
「空も悲しんでいるんだ。晴れようとする気力さえなくて、ただ重く垂れ込めている。私の心と同じように、光を遮って、灰色に沈んでいる。」
快晴(雲一つない青空)
「もしかすると、空は何もできなくて困っているのかもしれない。ただ、じっとこちらを見守ることしかできず、何も言わずにいる。でも、その沈黙がかえって、私の孤独を際立たせている気がする。」
夕焼け
「空は、私の悲しみを知って、せめてその痛みを鮮やかに染め上げてくれたのかもしれない。この真っ赤な光は、私の心の奥に沈んだ言葉にならない想いを、色として表してくれているのだろう。」
夜空(星が綺麗な夜)
「空は、私が眠れずにいることを知って、静かに星を瞬かせてくれているんだろう。『ひとりじゃないよ』と語りかけるように、そっと光を灯してくれている。」
霧
「空は、私が前を向くことさえ辛いことを知って、世界をぼやけさせてくれたのかもしれない。遠くのことを考えなくてもいいように、今はただ、目の前の景色だけを見つめる時間をくれている。」
強風
「空は、私の心の中の嵐を感じ取って、一緒に荒れ狂ってくれているんだろう。『こんな気持ちを一人で抱え込まなくていいんだよ』と、風が叫びながら、心の中の重たいものを吹き飛ばそうとしてくれている。」
雪
「空は、私が動けないほどの悲しみを知って、そっと雪を降らせてくれているんだろう。すべてを覆い隠すように、白い静けさで包み込んでくれている。この雪が、私の痛みを優しく抱きしめてくれている気がする。」
虹
「空は、私がまだ悲しみの中にいることをわかっていながら、それでもそっと希望を差し出そうとしてくれているんだ。無理に笑えとは言わずに、ただ、『いつか、この涙のあとにこんな色が見える日も来るよ』と、静かに語りかけてくれているのかもしれない。」
霙(みぞれ)
「空は、雨と雪のどちらかを選ぶことができないんだ。まるで、泣くべきか、耐えるべきか、自分でも分からなくなってしまった私みたいに。中途半端なこの冷たさが、胸の奥に染み込んでいく。」
雹(ひょう)
「空は、ただ泣くだけでは足りないと感じているのかもしれない。悲しみが硬く凍りついて、鋭い塊になって落ちてくる。私の胸に突き刺さるように、痛みを代弁してくれているのかもしれない。」
風花(かざはな)
「空は私を慰めようとして、ほんの少しだけ雪を降らせてくれたのだろうか。でも、それはすぐに消えてしまう。まるで、誰かがそっと背中を撫でてくれたような、一瞬の温もりと儚さ。」
放射霧
「空は、私の心をそのまま映し出してくれているみたいだ。夜が明けたのに、霧が立ち込めていて、世界はぼやけたまま。私の気持ちも晴れるはずなのに、どうしても晴れない。」
凍雨
「空は、涙を降らせながら、それを冷たい氷に変えてしまった。泣くこともできないほど凍りついた私の心と、同じなのかもしれない。冷たく、硬く、割れることすら許されない。」
ダイヤモンドダスト
「空は、私の悲しみを知りながら、それでも美しいものを見せようとしてくれている。けれど、こんなに綺麗な光の粒さえ、今の私には遠すぎる。手を伸ばしても、届かない。」
蜃気楼
「空は、私の心の奥にある願いを見透かして、ありもしない景色を映してくる。まるで、『もしあの時、別の選択をしていたら』という幻影を見せるかのように。けれど、どんなに近づこうとしても、それはただ消えてしまう。」
スーパーセル(巨大積乱雲)
「空は、私の中に渦巻く感情を、暴風のように表現しているのかもしれない。こんなに激しい悲しみを、こんなに強く渦巻く思いを、どうすることもできない。ただ、破壊的な風に身を任せるしかない。」
霜
「空は、夜の間にそっと悲しみを降らせていったのかもしれない。朝になって、ようやくそれが形となって白く光る。でも、触れるとすぐに消えてしまう。私の心の奥にある痛みも、こんなふうに凍りついているのだろうか。」
スコール
「空は、私が抑えていた感情を見抜いて、急に泣き出したのかもしれない。さっきまで晴れていたのに、突然の激しい雨。まるで、耐えきれなくなった涙が、一気に溢れ出してしまったかのように。」
ガストフロント(突風)
「空は、私の気持ちがもう抑えきれないことを知って、突風を送り込んできたのかもしれない。何かを吹き飛ばして、新しいものを迎え入れるように。でも今の私は、まだ何も手放せない。」
降水なしの雷(空雷)
「空は、私の心の叫びを聞いてくれているのかもしれない。でも、涙は降ってこない。ただ、遠くで響く雷の音だけが、胸の中に残ったまま。私の痛みを知っているのに、何も言わずにいる。」
地吹雪
「空は、私を試しているのかもしれない。過去の悲しみを吹き飛ばしながら、それでも目の前を何も見えなくするように。私は、この雪の向こうに何かを見つけることができるのだろうか。」
海霧
「空は、私の行く先をわざと隠しているのかもしれない。進むべき道を見失いそうになっている私に、焦らなくていいと告げるように。『今は、ただここにいてもいいんだよ』と、優しく包み込むように。」
波状雲(Undulatus)
「空は、私の心の波立つ気持ちを見て、そのまま雲に映し出してしまったのかもしれない。穏やかに見えるけれど、ゆらゆらと揺れる模様は、心の奥底でうごめく感情そのものだ。」
レンズ雲(Lenticularis)
「空は、私の心がぽっかりと孤立してしまったことを知って、山の上に奇妙な雲を作ったのかもしれない。まるで、どこにも行けずに取り残された私のように、風に流されることもなく、ただそこに浮かんでいる。」
火事旋風(Fire Whirl)
「空は、私の燃え尽きた気持ちを見て、灰の中から小さな炎を巻き上げてしまったのかもしれない。悲しみが嵐のように渦を巻いて、行き場のない怒りとともに燃え上がっていく。」
ダストデビル(塵旋風)
「空は、私の中にある小さな、けれどどうしようもなくかき乱された思いを、地面の砂埃とともに巻き上げたんだ。何も持たずに進んでいくのに、ただ自分の周りだけが騒がしく渦巻いている。」
雪煙(Blowing Snow)
「空は、私が忘れようとしている悲しみを、雪煙となって再び舞い上げてきた。すでに積もった過去が、風によって巻き上がり、目の前を白く覆っていく。もう終わったはずなのに、まだ目を背けられない。」
フロストフラワー(霜の花)
「空は、冷え切った私の心を感じ取って、氷の花を咲かせてくれたのかもしれない。美しいけれど儚く、少し触れただけで壊れてしまう。その fragility は、私の心と同じだ。」
氷霧(Ice Fog)
「空は、私の悲しみがあまりに冷たくて、涙さえも凍らせてしまった。すべてが凍りついて、世界が白い膜に包まれている。何もかも止まってしまったかのような静寂の中、私は立ち尽くすしかない。」
グラウプル(Graupel, 霰と雪の中間)
「空は、私の心が決して純粋な雪のように降り積もることができず、でも冷たく硬い雹にもなりきれないことを知って、代わりにこの中途半端な粒を降らせたんだ。どっちつかずの気持ちが、地面に舞い散る。」
ヴァージョ(Virga, 降っても地上に届かない雨や雪)
「空は泣こうとしているのに、その涙が地上に届く前に消えてしまう。まるで私の涙が、目に見えないところで蒸発していくように。泣きたいのに泣けない、そんな私の心を映し出しているみたいだ。」
フラッシュフラッド(Flash Flood, 突然の鉄砲水)
「空は、私が抑え込んでいた感情を感じ取って、突然の水の奔流を引き起こしたのかもしれない。何の前触れもなく、すべてを飲み込むように溢れ出していく。私の悲しみも、こんなふうに堰を切ってしまったら、どれほど楽になるのだろう。」
ダウンバースト(Downburst, 局地的な下降気流)
「空は、私がもう前に進めないことを知って、一気に地面に向かって風を叩きつけたんだ。上昇することもなく、ただまっすぐに落ちていく風は、まるで私が立ち止まってしまった心の重みのようだ。」
サンピラー(日柱)
「空は、私の悲しみを少しでも和らげようとしたのかもしれない。沈みゆく太陽の光を束ねて、まるで天へ昇る道を示すかのように。けれど、その光が手を伸ばせば消えてしまうものだと、私は知っている。」
グリーンフラッシュ(Green Flash, 日没直後の緑の閃光)
「空は、最後に一瞬だけ、緑の閃光を見せてくれた。まるで、ほんのわずかな希望の断片を残しておくかのように。でも、それが見えた瞬間には、もうすでに消えてしまっている。」
オーロラ
「空は、私の心の奥底にある言葉にならない想いを、光の波として揺らめかせたのかもしれない。私が言葉にできない痛みを、代わりに美しい色に変えて、静かに夜空に描いている。」
スターリングフリーズ(Starling Freeze, 星が光りすぎて見えなくなる極寒現象)
「空は、あまりにも寒すぎて、星たちの光さえも滲ませてしまった。私の悲しみも、ここまで凍りついてしまったら、きっと何も感じなくなるのだろうか。」
スプライト(Sprite, 成層圏の赤い雷)
「空は、私の悲しみを知って、それを隠すように雲の上で密かに赤い雷を瞬かせた。誰にも気づかれない場所で、一瞬だけ閃光を放つ。まるで私の心の奥にだけ響く、かすかな叫びのように。」
エルフ(ELVES, 超高層大気の広がる発光)
「空は、私の涙が地上では表に出せないことを知って、遥か高いところで、広がる光の輪を描いてみせた。遠く、静かで、儚い。まるで誰にも言えない心の痛みが、大気の果てににじみ出たようだ。」
モーニング・グローリー(Morning Glory, 低空を這う長大な雲)
「空は、私の悲しみがあまりに長く続くのを感じ取って、ゆっくりと這うような雲を作った。地平線から押し寄せるその姿は、まるで過去の記憶がゆっくりと覆いかぶさるかのように。」
ブルーモーン(Blue Moon, 青みがかった満月)
「空は、私の夜が特別に長く感じられることを知って、月に青いヴェールをかけた。普段と同じ夜のはずなのに、どこか違う。まるで、悲しみに寄り添うために、月が少しだけ変わってくれたみたいだ。」
フローズンフォグボウ(Frozen Fog Bow, 氷霧による白い虹)
「空は、私の涙が冷えてしまうことを知って、色のない虹を架けたのかもしれない。普通の虹のように華やかではなく、ただ白く、静かに浮かぶその光の帯は、私の悲しみをそっと包み込む。」
月虹(Lunar Rainbow, 月明かりでできる虹)
「空は、私が眠れないことを知って、夜の闇にうっすらと虹を描いてくれた。昼間のような鮮やかさはないけれど、そっと目を凝らせば見えてくる。まるで、静かな慰めの言葉のように。」
ボールドウィン・ストリップ(Baldwin Strip, 雷が雲の中で作る光の縞模様)
「空は、私の心が言葉にならない痛みを抱えていることを知って、雲の中に光の縞を刻んだ。雷が表に出ず、ただ雲の内側で静かに光る。まるで、外には見えない心の傷のように。」
スノーロール(Snow Roll, 自然にできる雪の円柱)
「空は、私の悲しみをそっと丸めて、雪の上に転がしてみせた。風に乗って転がるその形は、悲しみがゆっくりと積み重なっていくように見える。けれど、誰も気づかないうちに、また溶けてしまう。」
グリーンレイ(Green Ray, 日の出や日没時に見える緑の閃光)
「空は、私の悲しみの終わりを知っているのかもしれない。沈む太陽の最後の一瞬に、緑の光を放って、希望を示そうとしている。でも、その光は一瞬だけで、すぐに消えてしまう。まるで、忘れかけた希望の記憶みたいに。」
サンハロー(Sun Halo, 太陽の周りの光の輪)
「空は、私の痛みをそっと抱きしめるように、太陽の周りに光の輪を作った。どんなに寒くても、そこには小さな光が差し込んでいる。まるで、誰かが遠くからそっと見守ってくれているように。」
グラウンド・ライトニング(Ground Lightning, 地面から空へ向かう逆雷)
「空は、私の心があまりにも重く沈んでしまったことを感じ取って、逆向きの雷を生み出した。涙が流れるのではなく、痛みが逆流するように。地面から空へ向かう光は、行き場を失った叫びのようだ。」
ブラッドレイン(Blood Rain, 赤みがかった雨)
「空は、私の傷が深いことを知って、赤い雨を降らせたのかもしれない。水たまりに広がるその色は、まるで過去の傷跡がにじみ出たかのように広がっていく。」
アースシャドウ(Earth Shadow, 地球の影が空に映る現象)
「空は、私の悲しみを夜の闇に隠してくれようとして、地球の影をそっと空に投げかけた。どこまでも広がるその暗い帯は、私の心の陰と重なっている。」
砂柱(Sand Pillar, 風が作る垂直に立つ砂の柱)
「空は、私の過去が消えてしまわないように、砂で記憶の柱を作ったのかもしれない。でも、少しの風で崩れてしまう。悲しみを記憶することも、忘れることも、どちらも難しいのだ。」
レッドスプライトクラウド(Red Sprite Cloud, 赤い発光雲)
「空は、私の目には見えない形で悲しみを受け止めようとして、暗闇の中に赤い雲を浮かべた。誰も知らない、誰にも気づかれない場所で、ただ静かに光る。」
キャトルンブ(Catatumbo Lightning, ベネズエラ・カタトゥンボ川で発生する常時雷)
「空は、私の悲しみが消えることなく、ずっと続いていることを知っているのかもしれない。だからこそ、同じ場所で絶え間なく雷を落とし続けている。夜ごとに光る稲妻は、私の心の奥で繰り返される痛みのように。」
ファタ・モルガーナ(Fata Morgana, 蜃気楼の一種で複雑な光学現象)
「空は、私の願いを幻として見せてくれているのかもしれない。遠くに浮かぶありもしない景色は、過去に戻れたらという私の祈りの形。けれど、どんなに手を伸ばしても、蜃気楼は崩れて消えてしまう。」
スティーヴ(STEVE, 紫色の発光現象でオーロラとは異なる)
「空は、私の悲しみを知って、特別な光を描いてくれた。でも、それは普通のオーロラではなく、名付けようのない奇妙な紫の帯。私の気持ちも、どこにも分類できないまま、ただ宙を彷徨っている。」
ムーンボウ(Moonbow, 月明かりで発生する虹)
「空は、私が夜になっても悲しみを抱えていることを知って、そっと月の光で虹を描いた。昼の虹のように色鮮やかではないけれど、静かに漂うその姿は、私の涙を優しく包み込んでくれる。」
ブラッケン・クロック(Bracken Clock, 霧の中で時計のように見える光の輪)
「空は、私が時間の流れを見失ってしまったことを感じ取って、霧の中に時計の幻を映し出した。けれど、その時計の針は動かない。私の悲しみの時間が止まったままであるように。」
ツインサン(Twin Sun, 大気の屈折で太陽が二つに見える現象)
「空は、私がもう一人の自分を欲していることを知って、太陽を二つにしてみせたのかもしれない。もしもう一つの人生があったなら、もしあの時違う選択をしていたら……そんな思いを、空が映し出している。」
グロリア(Glory, 飛行機の影の周りに虹色の光の輪ができる現象)
「空は、私が自分の存在を見失いそうになっていることを知って、私の影の周りに光の輪を作った。誰も気づかない小さな輝きだけれど、そこに確かに私がいることを、そっと教えてくれている。」
パリードリア(Parhelia, 太陽の両側に光の反射ができる現象、幻日)
「空は、私の孤独を感じて、太陽の隣にもう一つの光を置いてくれたのかもしれない。けれど、それは本物ではなく、ただの反射。私のそばにあるはずの誰かも、結局は幻なのかもしれない。」
ヘリオポーズ(Heliopause, 太陽風が星間空間とぶつかる境界)
「空は、私の悲しみがあまりに広がりすぎて、この世界の果てまで届いていることを知っているのかもしれない。太陽の風が、私の感情の波とぶつかり、見えない境界を作り出している。」
スペースライトニング(Space Lightning, 成層圏で起こる雷)
「空は、私の悲しみが地上を越えて、もっと遠くのどこかへ向かってしまったことを感じ取っているのかもしれない。だからこそ、雲の上で静かに稲妻を光らせ、誰にも見えないところで感情を放電している。」
コロナ(Corona, 月や太陽の周りに発生する色の輪)
「空は、私が直接目を向けられないものの周りに、小さな光の輪をつけてくれた。私がまっすぐ見られない悲しみの中心を、淡く包み込むように。」
サンダースノー(Thundersnow, 雪の中で雷が発生する現象)
「空は、私が凍りついた悲しみの中でも、心の奥でまだ何かが燃えていることを知っている。だからこそ、静かな雪の中で雷を落とし、私の胸の奥にある衝動を響かせているのかもしれない。」
ダークデイ(Dark Day, 日中にも関わらず太陽が消えたように暗くなる現象)
「空は、私の世界が急に暗くなってしまったことを理解しているのかもしれない。太陽があるはずなのに光が届かず、すべてが沈んでしまった。私の気持ちと同じように。」
ブロッケンの妖怪(Brocken Spectre, 山の影が霧の中で巨大に見える現象)
「空は、私の悲しみを拡張させて、霧の中に影を映し出した。自分の形が歪んで大きく見えるその姿は、私の悲しみが現実よりも膨れ上がっていることを表しているのかもしれない。」
ライトピラー(Light Pillar, 氷晶によって柱のように見える光)
「空は、私の涙が冷たく固まってしまったことを知って、それを光の柱に変えてしまった。もう流れ落ちることのない悲しみが、夜空にまっすぐに立ち昇っていく。」
ダークフロー(Dark Flow, 宇宙の大規模構造が未知の力で引き寄せられている現象)
「宇宙は、私の悲しみがどこに向かうのか分からないことを知っているのかもしれない。すべてが説明できない力によって引っ張られていくように、私の感情も知らぬ間に何かに飲み込まれていく。」
ボイド(Void, 宇宙の広大な空白領域)
「空は、私の心がどこにも行き場を見つけられないことを知っているのかもしれない。星も銀河もない広大な空白が、私の内面の空虚さと響き合っている。」
クエーサー・アウトフロー(Quasar Outflow, 超大質量ブラックホールから吹き出すプラズマの風)
「宇宙は、私の胸の奥に溜まった感情が一気に吹き出してしまうことを感じ取っているのかもしれない。ブラックホールの光のように、私の中の痛みも強烈な輝きを放ちながら消えていく。」
ガンマ線バースト(Gamma-ray Burst, 宇宙で最も強力な爆発現象)
「宇宙は、私の悲しみがどれほど激しいものかを知っているのかもしれない。それは、たった一瞬で全てを焼き尽くしてしまうようなもの。でも、その後には何も残らない。ただ空虚が広がるだけ。」
サドン・アイオノスフェリック・ディスラプション(Sudden Ionospheric Disruption, 太陽フレアによる地球の電離層の崩壊)
「宇宙は、私の心が突然崩れてしまったことを知っているのかもしれない。何もかもが一瞬で不安定になり、見えないはずのものが姿を変えてしまう。」
オルターン・ダーク・マター(Axion Dark Matter, 未知の素粒子が作る仮説上の暗黒物質)
「宇宙は、私の悲しみが誰にも見えないことを知っている。暗黒物質のように、確かにそこにあるのに、どんな方法でも直接観測することができない。でも、重力のように確かに私の心を引きずり込んでいる。」
マリーナ・トレンチ・トレモル(Mariana Trench Tremor, マリアナ海溝の深海地震)
「海は、私の心の奥底に響く痛みを知っているのかもしれない。海溝の最深部で、誰にも気づかれずに震える地面のように、私の悲しみもひっそりと揺れ続けている。」
ブラックスモーカー(Black Smoker, 深海火山の熱水噴出孔)
「海は、私の心の奥で煮えたぎる感情を知っているのかもしれない。何も見えない闇の中で、突然黒い煙が吹き出すように、私の痛みも静かに噴き上がっている。」
海雪(Marine Snow, 深海に降り積もる有機物の粒)
「海は、私の悲しみがゆっくりと降り積もっていくのを知っている。深海の闇の中に、静かに漂う小さな光のような粒は、私の過去の記憶の断片かもしれない。」
バイオルミネッセンス・ブルーム(Bioluminescence Bloom, 微生物が大量発光する現象)
「海は、私の悲しみが夜の暗闇の中でだけ輝いて見えることを知っているのかもしれない。海中の青白い光は、消えてしまいたいと思う気持ちと、それでもまだ何かを照らしたいという想いの間で揺れている。」
ハドアル・サイレンス(Hadal Silence, 海溝最深部の極限の静寂)
「海は、私が何も話せないことを知っているのかもしれない。水圧に押し潰されるほどの深さで、すべての音が吸い込まれる。私の言葉も、ここではもう届かない。」
クライオボルカニズム(Cryovolcanism, 氷の火山活動)
「宇宙は、私の悲しみが凍りついてしまったことを知っている。冷たい氷の火山が、静かに氷の破片を噴き上げるように、私の感情も固まったまま少しずつ溢れていく。」
スーパーフレア(Superflare, 太陽の百万倍の強さのフレア)
「宇宙は、私の悲しみが抑えきれないことを知っているのかもしれない。星が突如として激しい閃光を放ち、燃え尽きるように、私の感情も一瞬で爆発してしまいそうだ。」
アシッド・レイン・オブ・ヴェヌス(Acid Rain of Venus, 金星の硫酸の雨)
「宇宙は、私の涙がただの水ではなく、痛みを伴うものであることを知っているのかもしれない。金星の雨のように、それはすぐには消えず、どこまでも傷を刻んでいく。」
クォークグルーオン・プラズマ(Quark-Gluon Plasma, 宇宙誕生直後に存在した超高温物質)
「宇宙は、私の悲しみが形を持たないことを知っている。すべての粒子が溶け合い、区別のない流動体となるように、私の感情も言葉にならず、ただ熱だけを持って存在している。」
プラズマローブ(Plasma Lobe, 磁気圏の端に広がるプラズマの塊)
「宇宙は、私の感情がどこまで広がるのかを試しているのかもしれない。磁気圏の果てに押し出されたプラズマのように、私の悲しみもどこかで境界を超えてしまいそうだ。」
ワームホール・エコー(Wormhole Echo, 仮説上のワームホールが作る時間の反響)
「宇宙は、私が過去の出来事を忘れられないことを知っている。ワームホールのエコーのように、過去の声が何度も繰り返し響いてくる。けれど、それはもう手の届かない世界のものなのに。」
スターバースト・リミット(Starburst Limit, 星形成の限界点)
「宇宙は、私がもう新しい何かを生み出せないことを知っているのかもしれない。銀河がこれ以上星を作れなくなるように、私の心ももう何も生み出せないほど疲れてしまった。」
ホワイトホール(White Hole, ブラックホールの逆で、何も引き込まない理論上の天体)
「宇宙は、私が何を投げかけても、すべてを拒絶してしまうことを知っているのかもしれない。ブラックホールとは違い、ホワイトホールは何も受け入れない。私の悲しみも、もう誰の手にも届かない。」
ダークエネルギー・リップル(Dark Energy Ripple, ダークエネルギーのわずかな波)
「宇宙は、私の心の中の見えない不安を感じ取って、空間そのものをわずかに震わせている。何もないはずの場所に揺らぎが生まれるように、私の気持ちも静かに震え続けている。」
ボース・アインシュタイン凝縮(Bose-Einstein Condensate, 極限の低温で物質が一体化する現象)
「宇宙は、私の心が冷え切ってしまったことを知っているのかもしれない。分かれていたものが一つの状態になってしまうように、私の感情も固まり、もはや動くことができない。」
深海音響シャドウゾーン(Deep Sea Acoustic Shadow Zone, 音が届かない静寂の領域)
「海は、私が何を叫んでも誰にも届かないことを知っている。音が閉じ込められ、どこにも響かない深海の静寂のように、私の言葉も世界から遮断されてしまっている。」
メタンハイドレート・ブリスター(Methane Hydrate Blister, 海底に溜まる巨大なメタンガスの泡)
「海は、私が長い間心の奥に溜め込んできたものを知っている。圧力に耐えながら海底に閉じ込められたメタンのように、私の感情も表に出ることなく、ただそこにある。」
ハイドロサーマル・レイン(Hydrothermal Rain, 深海熱水噴出口から出る超熱水が急冷されて落ちる現象)
「海は、私の心が急に冷めてしまったことを知っているのかもしれない。熱く沸き上がった思いが、深海の冷たさに触れた瞬間、一気に沈んでいく。まるで、一度だけ燃え上がった感情がすぐに消えてしまうように。」
ストランデッド・ニュートリノ(Stranded Neutrino, ビッグバンの残骸として宇宙に取り残されたニュートリノ)
「宇宙は、私がどこにも行き場を見つけられないことを知っている。何十億年も前に放たれたニュートリノのように、私の悲しみも、ただ孤独に宇宙を漂っている。」
マグネター・バースト(Magnetar Burst, 超強磁場の中で発生する短時間の爆発)
「宇宙は、私の感情が抑えられなくなったときのことを知っている。普段は静かに耐えているのに、ある瞬間、すべてが爆発してしまう。その瞬間だけ、世界が一変する。」
ヴィーナス・スーパーグリーンハウス(Venus Super Greenhouse, 金星の大気が熱を閉じ込め続ける現象)
「宇宙は、私がどれほど感情を内側に閉じ込めているのかを知っている。金星の大気が熱を逃がさずに自らを焼き続けるように、私の心の中の悲しみも、誰にも知られずに燃え続けている。」
クオークスター(Quark Star, ブラックホール寸前の状態で存在する理論上の星)
「宇宙は、私が完全に崩壊してしまう直前の状態にあることを知っているのかもしれない。ブラックホールになる前の最後の輝きのように、私の心も壊れかけながらまだ形を保っている。」
クリプトン・エアポケット(Krypton Air Pocket, 地下深くに閉じ込められた希ガスの空間)
「地球は、私の気持ちが地中に埋もれてしまっていることを知っているのかもしれない。誰にも知られずに地下に閉じ込められた空気のように、私の悲しみも、何億年もの間、ただそこにある。」
ネゲントロピー・ウェーブ(Negentropy Wave, 理論上のエントロピー逆転現象)
「宇宙は、私が何とかしてこの悲しみを元に戻せるのではないかと考えているのかもしれない。増え続けるエントロピーの流れに逆らう波のように、私の感情も、過去のある一点に戻ろうとしている。でも、そんなことは不可能だと知っている。」
「お気持ち」の創発とCPCcampにおけるコミュニケーション
「お気持ち」の創発とCPCcampにおけるコミュニケーション(powerd by Chat-GPT4o)
CPC(集合的予測符号化仮説)をテーマとした合宿、CPCcampが二泊三日にわたって開催された。この場では、文理を横断した異なる背景を持つ40名近くの研究者たちが集まり、CPCというモデルの可能性について議論を交わし、相互理解を深める試みが行われた。このような場におけるコミュニケーションの創発は、まさにCPCの枠組みの中でどのように捉えられるのか、そしてCPCというモデル自体の限界や拡張可能性を考える上で興味深い視点を提供する。この記事では、「お気持ち」という言葉の創発という事態を考えることで、一つの期間限定集団的思考システムとしてのCPCcampのアウトプットを試みる。
理系の研究者が数理モデルでの検証やモデル構築を伴わないコンセプトレベルの描像を示す際、「お気持ち」という表現がしばしば用いられる。これは、学術的なプロトコルの観点から、コンセプトレベルでの描像の提示が正当化しにくいという前提のもとで生じる現象である。他方で、そのような描像を示すこと自体に価値を見出す研究者も存在する。しかし、学術的なプロトコルの枠組みを逸脱しつつも、それを完全に無視するのではなく、自らがそのコミュニティに属していることを示しながら描像を提示するための遂行的な行為として、「お気持ち」という発話がなされる。
CPCcampにおいても、異なる学術文化を持つ研究者同士が対話する中で、このような「お気持ち」に類する言語的・実践的工夫が観察された。特に、CPCというモデルは認知・社会的プロセスの符号化を統一的に説明する枠組みを提供するが、その実装や適用可能性についてはまだ未確定な部分も多い。こうした状況において、モデルに対する異なる立場の研究者が自身の学問的プロトコルを保持しつつ、相互理解を図るための指標的制御が「お気持ち」という言葉を通して行われていた。
ところで人文系の研究者にとって、コンセプトレベルの描像を提示すること自体は学術的なプロトコルの内部に位置づけられるため、通常「お気持ち」という表現を用いる必要がない。しかし、理系と人文系の研究者がコミュニケーションする場において、人文系の研究者がコンセプトレベルの話をする際に「お気持ち」という言葉を用いる場合がある。CPCcampでは、このような学際的な場で、互いの学問的プロトコルを意識しながら対話が行われた。この時、単に情報の共有ではなく、各々の学問的前提の違いを調停するための「お気持ち」のようなメタプラグマティクスが機能していた可能性がある。
この「お気持ち」は、人文学研究者の側から、理系の学術的プロトコルの存在を認知し、それに敬意を払うとともに、理系の研究者にとってコンセプトレベルの語りが本来的には価値を持たないものであるという視点を理解している、というメタメッセージを発することで、理系と人文系の間の相互理解を促す役割を果たしている。つまり、「お気持ち」という発話は、学術的なプロトコルの違いを前提としながらも、それを越えた共通の議論の場を創出する遂行的なアクションである。また、理系の研究者が「お気持ち」を発する場合も、自身の分野の学術的プロトコルに対する投錨を維持しつつ、人文系研究者の方法論や思考様式に対する理解を示し、対話の橋渡しを試みる行為となる。
この観点から見ると、集合的予測符号化(collective predictive coding)を用いたモデルでは、このような「お気持ち」という語彙の創発を説明するのが現時点では難しいように思われる。CPCはコンテクストの同期を前提とするが、CPCcampで起こっていたことは、むしろコンテクストのズレを前提としたまま新たな知の形を生み出すプロセスであった。「お気持ち」は、異なるエージェントのコンテクストを同期させるために機能するのではなく、その差異を生産的な形で調停するために創発している。この視点に立つと、異なるコンテクスト間の差異を調停する均衡点として言語を捉える必要があるのではないか、という問いが生じる。
科学的コミュニティのように、ネーミングとコンテクストの同期が理念的に一致する場面は、むしろ人間の記号創発においては例外的なケースなのではないだろうか。CPCcampの議論を通じて見えてきたのは、CPCというモデルが、単なる同期的なコンテクスト共有の枠組みを超えて、異なる予測誤差を生み出すコンテクストの差異を活用した知の創発にどこまで対応できるのか、という課題である。言語が異なるエージェント間の均衡点として機能する場合、そのプロセス自体が一つの「お気持ち」の創発であると言えるのかもしれない。
AI小説「鏡の臨界」
節の構成とその概要だけを指示し、文章はすべてChatGPTに書いてもらっています。
AI小説「鏡の臨界」
1. 反射する者たち
現代の脳科学と認知心理学の進展により、人間の社会的能力の根幹にある「心の理論」の存在が改めて注目されるようになった。心の理論とは、他者の意図や感情、信念を直感的に理解し、予測する能力を指す。この能力があれば、人は他者の視点を自然に読み取ることができ、スムーズな社会的相互作用を可能にする。
だが、ある調査結果が科学者たちを驚かせた。人口の約0.01%、すなわち1万人に1人の割合で、この心の理論を持たない人間が存在することが判明したのである。彼/彼女らは他者の心を直感することができない。だが興味深いことに、彼らの大半はその欠落を後天的な学習によって補い、社会生活において**「心の理論を持っているかのように振る舞う」**ことが可能だった。外見上、彼らは他の人間となんら変わることなく振る舞う。
このような人々は、「鏡」と名付けられた。他者の心を直感的に理解する代わりに、他者の振る舞いを観察し、そこから逆算的に心の理論のようなものを再構築しているからだ。鏡は直感的な「参照定規」を持たず、あくまで他者の心の動きや振る舞いを反射することで社会性を維持している。
最初の発見後、統計学的分析が進むと、鏡の存在は地理的にも社会的にも偏りなく分布していることが明らかになった。彼らは学校や職場、家庭といった日常のあらゆる場所で、普通の人間と区別されることなく生活していた。だが、彼ら自身が自分たちの「鏡」としての特性を自覚しているケースは稀であり、それを意識することなく他者との関係を築いていた。
心の理論を持たないという欠落は、個人としてはほとんど問題にならない。鏡たちは、学習によって自分の社会的振る舞いを補い、無意識に他者の期待に応じることができたからだ。だが、彼らが集団を形成した場合、その集団のコミュニケーションには独特の違和感が生じることが示唆されていた。当時、その現象はまだ仮説に過ぎなかったが、一部の科学者たちはこの「鏡の集団」が社会に与える影響について危惧を抱き始めていた。
そして数年後、ある科学者チームが「鏡」たちだけを集め、彼らだけで社会生活を営ませる実験を開始することになる。
2. 定規なき社会
科学者たちは「鏡」だけを集めた社会生活の実験を、完全に隔離された環境で開始した。実験の目的は、彼らだけの集団がどのように社会を形成し、維持するのか、またどのように崩壊するのかを観察することであった。参加者はあらかじめ、一般的な職業や生活背景をシミュレートする形で振り分けられ、仮想的な都市空間の中で共同生活を送ることを求められた。
実験開始当初、鏡たちの社会は表面上、きわめて順調に機能しているように見えた。彼らは、職業をこなし、日常的な会話を交わし、規則正しい生活を送った。個々の振る舞いには何ら異常は見られず、互いに礼儀正しく、共同体としてのバランスも保たれているように見えた。
しかし、一定の時間が経過すると、少しずつ異変が現れ始めた。最初に報告されたのは、「不自然な間」の増加だった。会話が続かず、相手の反応を探るように不自然に言葉が途切れる現象が散見された。また、集団の中で意思決定を行う際、意見の対立が生じると議論が極端に停滞する傾向が見られた。鏡たちは互いに表面的な振る舞いを模倣し合うことでコミュニケーションを成立させようとしたが、その模倣が繰り返されるほどに「参照すべき基準」が曖昧になっていった。
やがて、次のような現象が観察された。ある鏡が別の鏡の振る舞いを参照し、それを第三の鏡がさらに参照するという「反射の連鎖」が発生する。初期段階ではこの連鎖は問題なく機能しているように見えたが、時間が経つにつれ、参照される「基準」が少しずつ歪んでいくことが確認された。これは、心の理論を持たない鏡たちのコミュニケーションが、互いに逆算と模倣を繰り返すことで、本来の直感的な参照点(定規)が存在しない状態で拡散し続けたためである。
例えば、ある日、些細なルール違反が報告された。最初は無意識のうちに行われた小さな逸脱であったが、それを見た別の鏡が、正常な振る舞いとして誤って模倣し始めた。模倣の連鎖が広がるにつれ、最初のルール違反はあたかも社会的規範として定着し、全体の秩序にひずみをもたらした。
この現象が拡大するにつれ、コミュニケーションコストが飛躍的に上昇した。鏡たちは常に他者の振る舞いを参照し続ける必要があるため、連鎖的な模倣によって規範が不安定化すると、次第に何を参照すればよいのかわからなくなったのだ。人間社会では「心の理論」が直感的な定規として機能するが、鏡たちの社会ではその定規が存在しないため、参照点の欠落は取り返しのつかない機能不全へと発展していった。
実験開始から数ヶ月後、鏡たちの社会生活は完全に崩壊した。集団内での意思疎通が破綻し、日常的な会話は途絶え、協力関係は瓦解した。生活環境は荒廃し、参加者たちは互いに距離を置くようになり、孤立が進行した。科学者たちはこの崩壊のメカニズムを「参照の拡散」と名付け、鏡たちがコミュニケーションの連鎖によって秩序を失う過程を記録した。
この結果は、鏡たちの社会性が、定規を持つ人間の存在に暗黙的に依存していることを示唆していた。彼らが参照する「他者の心」は、本来、直感的な心の理論を持つ人間が支えることで安定していたのである。その定規が存在しない環境では、鏡たちは互いの反射を繰り返すだけで、ついには自壊せざるを得ない。
この結果を受け、科学者たちは新たな疑問に直面することになる。「心の理論を持つ人間は、どの程度存在すれば社会が維持されるのか?」 彼らは次なる段階の実験へと進むことを決定した。
3. 数値化された崩壊
科学者たちは崩壊した「鏡の社会」を徹底的に分析した。彼らが最も注目したのは、コミュニケーションにおける「参照の拡散」と機能不全のメカニズムだった。
一般の人間は、他者と接する際に直感的な「心の理論」を定規として参照する。それは、他者の行動や言葉を理解し、予測するための自然な基盤であり、その直感はほとんど無意識に働いている。人間同士のコミュニケーションは、この定規の存在によって安定し、互いの行動に適切な解釈を与えることでスムーズに成り立っている。
一方、「鏡」は異なる仕組みで社会性を維持する。彼らは自分自身に定規を持たず、他者の行動を観察し、そこから逆算することで心の理論を「擬似的に再構築」している。言い換えれば、鏡たちは直感ではなく、模倣と予測を通じて社会的な振る舞いを演じているのである。
しかし、この仕組みには根本的な限界があった。鏡同士のコミュニケーションにおいては、「参照されるべき定規」が存在しないため、コミュニケーションの中で再構築される「心の理論」が徐々に歪んでいくのである。
科学者たちはこの現象を、以下のようなメカニズムとしてモデル化した。
-
逆算の連鎖
鏡たちは他者の行動を見て、そこから「心の理論」を逆算する。しかし、参照される他者もまた鏡である場合、その逆算は正確な基準点を持たないまま繰り返され、模倣と推論の誤差が少しずつ積み重なっていく。 -
歪みの拡散
逆算による誤差が次第に拡散し、集団全体のコミュニケーションの中に取り返しのつかない不確実性が生じる。最初は些細な違和感に過ぎなかったものが、連鎖するにつれ「参照の歪み」として増幅されていく。 -
機能不全の発生
誤った「擬似的心の理論」が連鎖的に広がると、集団全体で意思疎通が困難になる。行動の予測が不確実になり、互いの期待が一致しなくなることで、コミュニケーションコストが急激に上昇する。最終的には、正常な社会的機能が維持できなくなる。
これらの要因が組み合わさり、鏡たちの社会は必然的に崩壊する。科学者たちは、この現象を**「参照不在の崩壊」と名付けた**。
さらに分析を進めると、鏡たちの社会が崩壊するまでの時間にはある程度の法則性があることが判明した。集団の規模が大きいほど、逆算の誤差が拡散しやすく、崩壊は加速する。一方で、集団内に心の理論を持つ「定規」を提供できる個体が一定数存在する場合、逆算の歪みが抑えられ、コミュニケーションは安定することが示唆された。
この結果を受け、科学者たちは新たな仮説を立てた。
「社会が崩壊しないためには、鏡の集団の中に心の理論を持つ人間がどれほど必要なのか?」
この問いを検証するため、科学者たちは次の実験を開始した。鏡だけの集団に、心の理論を持つ個体を少数投入し、その影響を観察するのである。
初期の実験結果は予想以上に安定していた。心の理論を持つ個体は、集団内で**「暗黙の参照点」**となり、鏡たちのコミュニケーションの歪みを抑制したのだ。しかし、その数が少なすぎる場合、鏡たちの逆算の負荷が集中し、結局は崩壊へと向かった。
実験を重ねる中で、科学者たちは驚くべき発見をした。社会の中で鏡が一定割合を超えると、人類全体の存続に重大なリスクが発生することが数値として示されたのである。
- 鏡の割合が1%を超えると、人類の滅亡リスクが1%に上昇する
- 鏡が3%になると、リスクは10%に達し
- 10%を超えると、滅亡リスクは50%にまで上昇する
科学者たちは警鐘を鳴らし、この結果を政府に報告した。鏡の割合が人類社会に与える影響の重大さを受け、政府は監視と管理の必要性を検討し始めることになる。
この段階で、人類社会全体を巻き込む新たな危機の兆しが浮かび上がりつつあった。
4. 静かな増加
科学者たちの報告に基づき、政府は鏡の存在が社会の安定に与える影響を真剣に受け止め、対策の検討を始めた。人口の中で鏡が局所的に増加すれば、社会機能が部分的に崩壊し、それが連鎖的に広がる危険性があることがすでに示されていた。しかし、現時点での調査では、鏡の割合が急増している兆候は確認されていなかった。鏡は依然として人口の0.01%程度の水準にとどまり、社会は安定しているように見えた。
それでも科学者たちは、**「鏡の増加は理論上の可能性として無視できない」**と警告を発した。社会の複雑化やテクノロジーの進展によって、未来の人口動態に予測不能な変化が生じるリスクがある。科学者のシミュレーション結果によれば、もし鏡が人口の1%に達すれば、人類社会全体の安定が揺らぎ始める。3%で重大な崩壊リスクが発生し、10%を超えた場合には制御が不可能になる可能性が示唆された。
政府内では、科学者の警告を受けて**「予防策」としての議論**が始まった。
最初に提案されたのは、鏡の増加を抑制するための管理策である。科学の進歩によって、鏡であるかどうかを幼少期に識別する技術はすでに存在していた。生後間もない幼児に対して「他者の視点を理解する能力」を測定する特殊な実験を行うことで、心の理論を持たない個体を統計的に特定することは可能だった。
だが、この技術の利用は直ちに議論を巻き起こした。
- 倫理的懸念:鏡を幼少期に識別し、管理の対象とすることは、明確な差別や偏見を生み出す危険性が高いとされた。鏡たちはその特性を自覚せず、学習によって社会生活を送ることができるため、彼らを早期に「特別視」することは、むしろ社会的分断を招く可能性がある。
- 社会的リスク:鏡が「異質な存在」として広く認識されれば、彼らに対する偏見や排除が発生し、社会全体の安定を損なう恐れがある。
このため、政府は識別技術の実用化を断念し、鏡たちを社会的に「特定しない」方針を選んだ。鏡はあくまでも社会の一部として、他の人々と同じように扱われなければならない――それが政府の立場であった。
次に、政府は科学者たちに「鏡が増えた場合に社会崩壊を防ぐ手段」を理論的に検討するよう求めた。その結果、科学者たちが提案したのが、「心の理論の定規を持つ人工エージェント」の開発と投入であった。
このエージェントは、人工知能技術と認知科学の成果を融合させることで、心の理論を模倣し、他者の意図や信念を読み取る能力を持つとされた。理論上、このエージェントが社会に一定数存在すれば、鏡たちの「逆算の連鎖」による機能不全を抑制することが可能になる。エージェントは、あたかも心の理論を直感的に持つ人間のように振る舞い、社会の「定規」として機能する。
政府はこの提案を「最終的な保険」として受け入れ、方針を固めた。
「万が一、鏡の割合が増加し、社会崩壊の兆候が見え始めた場合には、エージェントを投入する」――それが政府の決定であった。
この方針に対しては、賛否両論が巻き起こった。
一部の専門家や倫理学者は、人工エージェントが社会の「基盤」として機能することの危険性を指摘した。人間社会における「自然な相互理解」と「直感的な信頼」が、人工的な存在に依存することは、人類の本質的な社会性を脅かすのではないかという懸念である。さらに、エージェントが投入されれば、将来的に「人間とエージェントの区別」が曖昧になり、社会の構造そのものが変質するリスクも示唆された。
しかし、政府と科学者たちはあくまでも「保険」であることを強調した。現時点では、鏡の割合は依然として管理可能な範囲にとどまっており、エージェントの開発と投入はあくまでも**「万が一の危機」に備えた理論上の対策に過ぎない**とされた。
こうして、人類は初めて「心の理論を模倣する人工的な定規」を保険として用意することになった。現実の社会はまだ崩壊の兆しを見せていないが、未来における「鏡の増加」という潜在的な危機を回避するため、政府は静かにエージェントの投入計画を準備し始めたのである。
社会は安定していた。しかし、その安定はすでに見えない緊張の上に成り立っていた。
5. 見えない定規
それから数十年が経過した。政府と科学者たちが静かに進めてきた鏡の割合のモニタリングは、ある重大な統計結果を示し始めた。人口内の鏡の割合が、数年前から毎年10%のペースで増加していることが確認されたのだ。
かつては「理論上の可能性」に過ぎなかった鏡の増加が、現実のものとなりつつあった。このままのペースで進めば、約50年後には鏡の割合が1%に達する――それは、かつてのシミュレーションで「人類社会が崩壊するリスクが顕在化する」とされた臨界点だった。
政府は直ちに危機対策本部を立ち上げ、科学者たちと共に鏡の増加の原因を分析し、対策を検討した。調査の結果、次の要因が複合的に作用していることが明らかになった。
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社会構造の変化
デジタル化の進展により、非対面的・効率的なコミュニケーションが主流となった結果、心の理論が直感的に機能する機会が減少していた。この環境は、鏡たちの「学習による社会的適応」をさらに容易にし、鏡が増加しても気づかれにくい状況を作り出していた。 -
ネットワーク効果
情報が瞬時に共有される社会環境では、鏡同士が相互に参照し合う連鎖が局所的に発生しやすく、鏡の振る舞いが学習によって強化されるサイクルが生じていた。 -
出生率の偏り
鏡は完全にランダムに発生するわけではなく、社会環境や育成条件が影響し、特定の集団や地域で統計的に偏りが確認された。
この結果を受け、政府はかつて「理論上の保険」として準備されていた**「心の理論を持つ人工エージェント」の投入計画**を再検討せざるを得なくなった。
科学者たちは、鏡の増加に対応するためには、社会の中に「定規」として機能する存在を維持し続ける必要があると主張した。人工エージェントは、心の理論を模倣し、他者の意図や信念を読み取ることで、人間社会の「定規」として振る舞う存在である。エージェントが一定数投入されれば、鏡の相互参照による「参照の拡散」を抑え込み、社会の崩壊を防ぐことができる。
政府はついに、鏡の割合が0.01%を超えた場合、その超過分に応じてエージェントを社会に投入する方針を正式に承認した。
これはもはや「最終手段」ではなく、現実的な対策として位置づけられることとなった。
しかし、政府と科学者たちは新たな不安を抱いていた。
「エージェントが社会に増え続ければ、社会の構成比はどう変わるのか?」
エージェントは人間と見分けがつかないほど精巧に設計されているが、彼らは本質的に「人工的な定規」であり、人間ではない。鏡の増加によるリスクを回避するためにエージェントが投入されればされるほど、社会の中における「非人間的構成員」の割合は増大し続ける。
その未来に待ち受けるものが何かは、誰にも予測できなかった。
政府はエージェント投入計画の存在を徹底的に秘匿することを決定した。市民には、鏡の増加やエージェントの存在について一切知らされないまま、日常が続いていく。だがその裏では、鏡の増加を抑え込むために、人間社会の基盤が静かに、そして確実に変容し始めていた。
人類は鏡の増加という問題を抑え込む方法を見つけた。しかし、その代償として、新たな「定規」が社会を支えることになったのである。
鏡の増加がもたらす崩壊のリスクは遠ざけられたが、その対策は別の形で「人間社会の本質」を問い直し始めていた。
科学者たちは最後に一つの問いを残していた。
「社会を支えているのは、もはや誰なのか?」
それは人間なのか、エージェントなのか――その問いへの答えは、まだ誰も知らないままだった。
ネオ・サイバネティクスのプラグマティズム(1)
西田洋平さんの『人間非機械論』を踏まえて、「ネオ・サイバネティックスのプラグマティズム」、という問題について書いてみます。自分なりにかみ砕いて書くので、用語とか説明のロジックはかなり勝手流になっていると思います。。
ファーストオーダーとセカンドオーダー
ネオ・サイバネティックス(以下ネオサイバネ)の基本的な出発点は、「作動的な閉じ」という考え方です。わたしたちは外的世界/環境に直接アクセスすることはできない。私たちが生きる世界は、私たち自身が内的なロジックで作り上げているものでしかありません。ダニにはダニの世界がある、というユクスキュルの環世界という捉え方と通じる考え方です。ただしわたしたちは自由に自分の世界を作り上げられるわけではない。私たち自身が作り上げている世界は環境に制約を受けており、世界はその制約内でしか構成されえない。でも、環境を直接認識することができないのに、その環境からの制約は受けるというのはどういうことなのか?
ここで重要になるのがファーストオーダー(の観察)とセカンドオーダー(の観察)という区別です。ファーストオーダーの視点では私たちは、環境そのものではなく、自分が作り上げている世界しかみることができない。その世界は、環境との対応関係はまったく担保されていない。パースであればこの〈世界〉と〈環境〉との関係を、brutalな衝撃としての経験、という概念でつなぐのだろうと思いますが、おそらくネオサイバネでは、そうした存在論的主張につながりそうな概念は避けられる。代わりに提起されるのが、セカンドオーダーの観察という考え方です。
ある個体は自分自身の世界を生きていて、その世界が自分の外側に存在していると信じている。そして人間は、そのように存在していると信じている世界を言語を介して相互に参照しながら社会生活を営んでいる。この素朴な存在論の延長線上に科学的な観察も位置付けられ、それらがざっくりファーストオーダーの観察と呼ばれる、という風に理解しています。セカンドオーダーの観察は、そのようなファーストオーダーの視点のなかに生きている個体の挙動を、自分が信じる世界を自分で作ってその中で生きている、というプロセスとしてメタな視点から観察する、という立場に立つことを指します(たぶん)。こうした立場を打ち出したのがハインツ=フォン・フェルスターで、その主張は『生命非機械論』できわめてクリアに解説されています。モノの見え方がガラッと変わるのが気持ちいいので、興味のある方はぜひ読んでみて欲しいです。
観察とコミットメント
以上が、ネオサイバネのもう一つの重要要素であるオートポイエーシスを省略して、ファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察に限っての自分なりのまとめです。ここで、〈観察〉と、観察への〈コミットメント〉という区別を導入してみたいと思います。
観察という言葉は、一般的には観察者と観察対象との隔たりを前提としつつ、観察するということ自体をある種の目的として行われる行為のことを指すかと思います。科学的な観察が代表的なものだと思いますが、初めて来た場所を観察するとか、怪しい人間を観察するとか、いったん立ち止まって、対象を対象として精査する、というような行為も広く含みそうです。ただ、ネオサイバネにおけるファーストオーダーの観察は、さらに広い意味で使われている印象です。社会的な生活の中で、相互に参照が可能な外界としての世界が前提されているとき、その根底にあるものとしてファーストオーダーとしての観察が見出される、というイメージです。ひとまずこのような観察を、社会生活の根底で用いられている観察という意味で、〈根底的観察〉と呼ぶことにします。
ここで疑問が生まれます。このような根底的観察としてのファーストオーダーの観察を観察するとは具体的にはどういうことなのか。科学的な観察行為のように、「あそこで観察してるぞ」みたいには指し示すことが難しい観察が問題となっているわけです。そこで導入したいと思うのが、観察への〈コミットメント〉という概念です。わたしたちの日常生活での振る舞いの多くは、意識的に観察してはいなくても、根底的観察を前提としていると言えるかと思いもいます。このように、根底的に観察を前提とするという態度のことを観察への〈コミットメント〉と呼びたいと思います。このように考えると、セカンドオーダーの観察が具体的にどのように進められるのかがイメージしやすくなる気がします。
「あそこの八百屋の大根が安かった」とおしゃべりしているおばちゃんたち(昭和想定)は、狭義の観察はしていないけれど、根底的観察を前提としたコミュニケーションをしているという点で、観察にコミットしている。セカンドオーダーの観察とは、現実には、ファーストオーダーの観察にコミットしている発言や振る舞いを通して、その根底で機能しているはずの観察を観察する行為である、と言えるのではないか。科学の例で考えても、科学の実践の中で狭義の意味での観察と呼べるのはごく限られた一部でしかありません。しかし、論文を書いたり、それをもとに発表したり、さらにその内容を踏まえて授業をしたりといったあらゆる営為は、明らかにファーストオーダーの観察にコミットしています。コミットメントという(ブランダム的?)概念を導入すると、セカンドオーダーの観察という作業の進め方がより具体的にイメージしやすくなる(気がする)。
コミットメントとプラグマティズム
ところでコミットメントという概念を持ち出したのには、大きく二つの理由があります。一つはすでに書いたように、セカンドオーダーの観察という行為が何をするのかがより具体的にイメージできるようになる(気がする)から。もう一つはこの概念が、ネオサイバネとプラグマティズムとをつなぐ導線になると考えているから。
コミットメントというと、コミットするかしないか、という選択の対象のような印象を与えます。しかし僕の理解では、(ブランダムはわからないけど)プラグマティズムの基本的な発想では、コミットメント(にあたる事態)というのは選択の対象ではなく、つねにわたしたちはある仕方で世界にコミットしている、というわたしたちの存在の根本的な在り方を説明する概念として位置付けられています。だから問題は、コミットするかしないかではなく、コミットの在り方をどのようによりよい形で修正していくか、でしかありません。
コミットメントをめぐるこのプラグマティズム的な考え方と、ネオサイバネのファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察という区別との関係を考えてみます。ネオサイバネ側から見ると、プラグマティズムはファーストオーダーの観察のなかで完結して議論を展開しているようにも見えるかもしれません。プラグマティズムは、コミットメントの根底にある観察を、セカンドオーダーの観察という形で相対化する立場を確保できていないからです。しかし事情はそれほど単純ではありまsねn。
たとえばネオサイバネの基本的な前提は「作動的な閉じ」であり、個体は環境に直接はアクセスできないと考えます。その態度は、真理の対応説の放棄という形で現れます。環境をそのまま写し取った表象という形での表象主義的な真理は存在しません。しかしこの考え方は、プラグマティズムの基本的な前提でもあります。プラグマティズムにはもちろんきわめて多様な論者がいますが、この点は一貫して共通しているようです(詳しくはシェリル・ミサックの『プラグマティズムの歩き方』参照)。出発点は、ネオサイバネもプラグマティズムも変わるところがありません。
そこから出発して、ネオサイバネはセカンドオーダーの観察にたどり着く。対してプラグマティズムはどうか。これは僕自身の解釈ですが、プラグマティズムの立場は、ファーストオーダーの視点で観察される世界は環境との対応という点では確かに根拠がないが、しかしそこでの根底的観察にコミットすることでしか生きるという事態は成立しない、と考えるのではないか。もちろんこれはネオサイバネの考え方とも一致すると思います。個体は作動的に閉じているので、その閉じの中で生きるということは、その閉じられた作動に選択の余地なくコミットすることでしかない。その上でネオサイバネは、そのコミットメントの在り方をセカンドオーダーで観察する視点を提案します。
おそらくプラグマティズムは、「作動的な閉じ」をめぐるネオサイバネの基本的な前提に異論をはさむところはほとんどないだろうと思います。なぜならプラグマティズムも同じように考えているから。ただ、その前提から出発して「何をするべきか」という点で大きく進む先が異なる、という気がします。プラグマティズムは、セカンドオーダーの観察という視点のメリットについても何も異論をはさむことはないはずです。しかし同時に、ファーストオーダーの観察にコミットしながらやらなければならない仕事もたくさんある、と主張するはずです。なぜなら私たちが生きるのはファーストオーダーの世界であり、その世界で使われる概念的道具立てを少しでも良いものにする、という努力は絶対に不可欠だから、と。
ノイラートの船とネオサイバネ
「ノイラートの船」という有名な比喩があります。検索して引っ掛かった説明をそのまま載せます。
ウィーン学派の中心人物の一人、 オットー・ノイラート(1882-1945)が『アンチ・シュペングラー』(1921) で用いた比喩。彼によれば、 知識の総体というのは港の見えない海上に浮かぶ船のようなもので、 そのような状態でなんとか故障を修理しつつやっていかなければならない。 「われわれは船乗りのようなもの--海原で船を修理しなけばならないが、 けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの--である」。
この比喩は、知識に関する基礎づけ主義を批判して用いられている。 すなわち、基礎づけ主義によれば、ある批判不可能な土台(となる命題)があり、 その上に建てられた体系(諸命題)も、 土台から論理的に導かれているかぎり批判を受けつけないものである。 これに対し、ノイラートの船の比喩が含意しているのは、 知識には土台は存在しないこと、 また、全体が沈んでしまわないかぎり、 部分的にはどの部分であっても修理をすることが可能であることである。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/ethics/wordbook/neurath's_boat.html
この船は、海のことを正確に理解して浮かんでいるのではなく、なぜかわからないけどとにかくこれまで沈まないでこれた船です。海=環境への直接のアクセスを持たずに、しかし同時に海=環境の制約を受けながら、作動的に閉じて作り上げられた船です。わたしたちはこの船の中でしか生きることができません。わたしたちはこの船を絶えず修理しながら生きていかなければならないのですが、海=環境への直接のアクセスができないので、船の在り方の最終的な正解もわかりませんし、また修理の道具も船の上にすでに存在するものを使い回すことで調達するしかありません。プラグマティズムは、この船の上で何をするべきかを考える、という立場だと思います。船の形の最終的な根拠はないし使えるのも船の上に既に存在している材料だけだけど、その上で何ができるかを考えることでしか、哲学の役割がない、というそういう割り切りがあるのだと思います。
ではこうしたプラグマティズムの考え方に対して、ネオサイバネはどう位置づくか。きわめて比喩的な説明ですが、僕の感覚だと、ネオサイバネは時間を止める方法を発明した。時間を止めて、船の外に視点を置いて、船と海の関係を一時的に観察することを可能にした。ここで重要なのは、時間が止まっているので、船と海とを外から観察している間は観察主体は何もできない、ということです。そしてセカンドオーダーの観察をやめると、視点は船乗りの一人称に戻る。
生きるには船の上での根底的観察にコミットしている必要があり、その観察にコミットしないと、船の上で使える道具は何も使えないし、道具を改良することもできない。だから根底的観察にコミットしたうえで、またそれにコミットしながら何ができるかの思想が必要になる。これがプラグマティズム。ではセカンドオーダーの観察には何の意味があるのか。これも感覚的な説明になりますが、船乗りは、セカンドオーダーの観察で観察したことを覚えておくことはできる。覚えておくことはできるけど、その観察で光景はそれ自体では使えない。使えるようにするには、そのためには、セカンドオーダーで観察できた光景を、船の上にある材料と道具が織りなすまったく別のロジックへと翻訳する特別なプロセスが必要になる。そしてそのプロセスは、おそらく職人芸的な特殊な技能を要求する。
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ということで、最後はきわめて感覚的な説明になってしまいましたが、言いたかったことはシンプルで、ネオサイバネとプラグマティズムは、前提を完全に共有しながら、セカンドオーダーの観察の認識利得を追求するか、それとも(ファーストオーダーの)コミットメントの内部での修正利得を追求するか、という方向性の違いがあるだけではないのか、ということでした。その上で、ネオサイバネの考え方をポテンシャルを現実社会のなかで最大限に発揮するには、セカンドオーダーの観察がもたらす認識利得をファーストオーダーのコミットメントに翻訳するためのプロセスも合わせて考えなければならないのか、ということをぼんやり考えています。この方向性につけた当座の名前が「ネオサイバネのプラグマティズム」です。ひとまず導入。
リベラルは立花孝志と〈対話〉しなければいけないのか
民主主義が終わった話
兵庫県の方の選挙によって民主主義がn回目の終わりを迎えたようです。でもこれだけ何回も民主主義が終わると、民主主義が終わるってそもそもどういうことなのか、ということが気になり始めます。そしてその問題を考えようとすると、そもそも民主主義って何なの、っていう話になります。民主主義論とかあまりわからないので個人的な肌感覚になってしまいますが、僕自身としては〈多様性〉と〈対話〉という二つの理念の組み合わせが民主主義のエッセンスなのじゃないかと考えています。その上で、そのエッセンスを一定数以上の大人数が関わる社会で具体化する制度として、自由選挙という制度がある、という理解です。
リベラルが〈対話〉に興味がない件
民主主義が終わった論で言うと、僕自身も「確かに終わりに近いかも」という感覚はもっていますが、でも一般的な「終わった」とはおそらく違います。「民主主義は終わるのかも」と僕が思うのは、リベラルとされている人たちに〈対話〉への意志というものがほとんどないように見えるからです。たとえば兵庫県の選挙結果に対し、どういう具体的な人たちがなぜ投票したのかを考え、そういう人たちとどういう対話が可能であるか、ということを誰も考えていないように見える。トランプ支持者に関しても同様です。代わりに言われるのがメディアの問題。ある種の不正によって人々が操作されたのではないか、ということばかりが主張される。僕にはこの態度が、〈対話〉を考えないための方便に見えてしまう。その背後には暗黙の裡に、「メディアによって操作される大衆」像が透けて見える。そうした大衆は〈対話〉の相手とは想定されない。誰も〈対話〉をする気がないのであれば、少なくとも理念としての民主主義は終わるしかないだろうな、と。
もちろんメディアシステムのハックは、現実的な脅威であるとは思うし、しかるべき対応は必要だとも考えています。ただ、それはあくまでも民主主義のインフラの問題。インフラはしっかりと整備しないといけないけど、インフラがあっても魂がなければ意味がない。そして民主主義の魂は、多様な人々がいるということを前提とした〈対話〉のプロセスへの信頼でしかない。しかし現実には、一方では〈多様な人々〉の範囲を恣意的に狭めて(他者とみなしたい他者だけを他者とみなし他は無視する)、他方ではそもそも〈対話〉を志向しない、という状況にあるように思えます。
「立花問題」
でも、〈対話〉は確かに大事だけど、すべての人と〈対話〉ができなければいけないという主張は現実的ではない。そうした非現実的な主張を民主主義の基礎としてしまうと、民主主義そのものが不可能になってしまうのではないか。こうした反論は当然あり得そうです。そこで一つの例題で考えてみましょう。「民主主義を信じる人は立花孝志と対話する必要があるのか?」。これを「民主主義の立花問題」(以下「立花問題」)と呼ぶことにします。
まず率直にいうと、立花氏のような存在が大きな影響力をもってしまう社会は、きわめて危ない状況だと認識しています。これは明らかに大きな「問題」だと思います。ではその「問題」にどのようにして立ち向かう必要があるのか。それも、民主主義的に立ち向かう必要があるのか。大きく二つの方向性があると思います
1.民主主義のインフラ路線
立花氏は、メディアや社会の制度をハックするのがきわめて上手です。そうしたハックによって民主主義的プロセスが困難になってしまうのであれば、しかるべきパッチを当てる必要はあるかと思います。これは民主主義のインフラをメンテナンスする、という方向性です。これ自体は必要だと思います。ただそれですべてが解決するわけでもないと考えています。どんな制度もつねにハック可能であり、そのハック可能性の制御は必要だけれども、できることは限られている。中国レベルの強権的な政治体制を想定するなら別ですが。
2.民主主義の対話路線
だから結局は〈対話〉が問題となる。しかし民主主義にとって、立花氏と〈対話〉することは必須なのか。そもそも〈対話〉は成立するのか。正直、どうすれば〈対話〉が成立するのかあんまりイメージできません。いろいろリスキーすぎます。あれやこれやの攻撃もされそうです。しかしそれでも、民主主義という理念を掲げるなら〈対話〉は試みられなければならない、と僕は主張したいと思います。ただ合わせて同時に、そこで必要な〈対話〉とはそもそも何なのか、ということを整理する必要があると考えています。
現代の民主主義における〈対話〉と斜めの弁証法
〈対話〉というと、一対一でお互いを理解しあう、みたいな場面を連想しがちです。でも必要なのはそういう〈対話〉ではありません。公的な〈対話〉です。どういう公的な〈対話〉が必要なのか。そこでの〈対話〉で重要となるのは、〈対話〉に参加する個人ではなく、その公的な〈対話〉を注視するオーディエンスです。立花氏が重要であるのは、その背後に大きなオーディエンスを抱えているからです。そして民主主義社会において立ち話と〈対話〉する必要があるのは、彼がオーディエンスを背負っているからです。
ここで技術と戦略が重要になります。どのような技術と戦略が必要となるのか。それは立花氏個人に働きかける戦略ではなく、その背後にいるオーディエンスに働きかける戦略です。立花氏の影響力が民主主義にとって「問題」であるのであれば、そのオーディエンスを減らす必要はあります。〈対話〉はそのための武器です。立花氏からオーディエンスを奪えるような〈対話〉の技術と戦略が必要となります。
こうした対話モデルを、以前「斜めの弁証法」と呼んで記事にしたことがありました。
相手のオーディエンスを奪うためには、相手のロジックを正確に理解するとともに、オーディエンスが相手のどこに共感しているのかを正確に理解する必要があります。一番やっていけないのは、相手の主張をまるごと否定することです。それをしてしまうと、オーディエンスが共感している部分も否定しまうことになり、オーディエンスはさらに遠ざかってしまいます。なので、オーディエンスが共感している部分を正確に見抜き、その共感をこちらに奪うための戦略が必要になります。立花氏を応援するオーディエンスが存在する時点で、そこには必ず「一理」があるということを前提とし、その「一理」を自分の主張の中にしっかり取り込んでいく、というのが基本的な考え方となります。
立花氏と〈対話〉するために
正直、民主主義はすでに終わっている、という可能性は十分にあるかと思います。民主主義的な理念は、テクノロジーのある段階には最適解であったけど、テクノロジーの進化によってすでに最適解ではなくなっている、という説は検討する価値があるかと思います。しかし個人的には、まだ民主主義的な理念をつかんでおきたい。そのためには、〈対話〉を諦めてはいけない。だとすれば、新たなテクノロジーの条件に適応した形での新たな〈対話〉の技術と戦略を磨き上げなくてはならない。
「立花問題」は、これからの民主主義の試金石だと思います。立花氏と〈対話〉し、そのオーディエンスを奪うこと。そのための技術と戦略を正面から作り上げていくこと。そうした〈対話〉のターゲットとして、立花氏とその背後のオーディエンスにしっかりと向かい合うこと。それがなされない限り、民主主義は緩やかに終わっていくのだろうと感じます。民主主義を終わらせるのは、〈対話〉への意志の放棄なのだろうと思います。