「お気持ち」の創発とCPCcampにおけるコミュニケーション

「お気持ち」の創発とCPCcampにおけるコミュニケーション(powerd by Chat-GPT4o)

CPC(集合的予測符号化仮説)をテーマとした合宿、CPCcampが二泊三日にわたって開催された。この場では、文理を横断した異なる背景を持つ40名近くの研究者たちが集まり、CPCというモデルの可能性について議論を交わし、相互理解を深める試みが行われた。このような場におけるコミュニケーションの創発は、まさにCPCの枠組みの中でどのように捉えられるのか、そしてCPCというモデル自体の限界や拡張可能性を考える上で興味深い視点を提供する。この記事では、「お気持ち」という言葉の創発という事態を考えることで、一つの期間限定集団的思考システムとしてのCPCcampのアウトプットを試みる。

理系の研究者が数理モデルでの検証やモデル構築を伴わないコンセプトレベルの描像を示す際、「お気持ち」という表現がしばしば用いられる。これは、学術的なプロトコルの観点から、コンセプトレベルでの描像の提示が正当化しにくいという前提のもとで生じる現象である。他方で、そのような描像を示すこと自体に価値を見出す研究者も存在する。しかし、学術的なプロトコルの枠組みを逸脱しつつも、それを完全に無視するのではなく、自らがそのコミュニティに属していることを示しながら描像を提示するための遂行的な行為として、「お気持ち」という発話がなされる。

CPCcampにおいても、異なる学術文化を持つ研究者同士が対話する中で、このような「お気持ち」に類する言語的・実践的工夫が観察された。特に、CPCというモデルは認知・社会的プロセスの符号化を統一的に説明する枠組みを提供するが、その実装や適用可能性についてはまだ未確定な部分も多い。こうした状況において、モデルに対する異なる立場の研究者が自身の学問的プロトコルを保持しつつ、相互理解を図るための指標的制御が「お気持ち」という言葉を通して行われていた。

ところで人文系の研究者にとって、コンセプトレベルの描像を提示すること自体は学術的なプロトコルの内部に位置づけられるため、通常「お気持ち」という表現を用いる必要がない。しかし、理系と人文系の研究者がコミュニケーションする場において、人文系の研究者がコンセプトレベルの話をする際に「お気持ち」という言葉を用いる場合がある。CPCcampでは、このような学際的な場で、互いの学問的プロトコルを意識しながら対話が行われた。この時、単に情報の共有ではなく、各々の学問的前提の違いを調停するための「お気持ち」のようなメタプラグマティクスが機能していた可能性がある。

この「お気持ち」は、人文学研究者の側から、理系の学術的プロトコルの存在を認知し、それに敬意を払うとともに、理系の研究者にとってコンセプトレベルの語りが本来的には価値を持たないものであるという視点を理解している、というメタメッセージを発することで、理系と人文系の間の相互理解を促す役割を果たしている。つまり、「お気持ち」という発話は、学術的なプロトコルの違いを前提としながらも、それを越えた共通の議論の場を創出する遂行的なアクションである。また、理系の研究者が「お気持ち」を発する場合も、自身の分野の学術的プロトコルに対する投錨を維持しつつ、人文系研究者の方法論や思考様式に対する理解を示し、対話の橋渡しを試みる行為となる。

この観点から見ると、集合的予測符号化(collective predictive coding)を用いたモデルでは、このような「お気持ち」という語彙の創発を説明するのが現時点では難しいように思われる。CPCはコンテクストの同期を前提とするが、CPCcampで起こっていたことは、むしろコンテクストのズレを前提としたまま新たな知の形を生み出すプロセスであった。「お気持ち」は、異なるエージェントのコンテクストを同期させるために機能するのではなく、その差異を生産的な形で調停するために創発している。この視点に立つと、異なるコンテクスト間の差異を調停する均衡点として言語を捉える必要があるのではないか、という問いが生じる。

科学的コミュニティのように、ネーミングとコンテクストの同期が理念的に一致する場面は、むしろ人間の記号創発においては例外的なケースなのではないだろうか。CPCcampの議論を通じて見えてきたのは、CPCというモデルが、単なる同期的なコンテクスト共有の枠組みを超えて、異なる予測誤差を生み出すコンテクストの差異を活用した知の創発にどこまで対応できるのか、という課題である。言語が異なるエージェント間の均衡点として機能する場合、そのプロセス自体が一つの「お気持ち」の創発であると言えるのかもしれない。