指標の二重の側面
学会での研究発表では、どこが伝わらなかったのか、というフィードバックがとても大事な気がします。そこから、どうして伝わらなかったのか、を考えることで一歩前に進める。
昨日の日本メディア学会では、「メディア研究における指標概念の再検討 :ヤコブソンのシフターと接触をめぐる議論を通してというタイトルで発表しました。発表資料はReseachmapにアップロードしました。
指標の概念と指標の問い
今回の発表では、〈メディア研究では指標という概念はメディアの物質性という観点から議論されることが多いが、本当はそれは指標概念の正確な理解ではなく、指標という記号を解釈する解釈項から出発されるべきだ〉、という趣旨の主張を行いました。ただこれはメディア研究における一般的な指標理解と真っ向からぶつかるもので、受け入れられるハードルがかなり高い主張だろうと思われます。実際、なかなか簡単にはいかないと実感する場面もありました。改めて振り返ってみると、発表の構造自体にも原因があったのだろうと思い至りました。
発表の一つの軸は、物理的な痕跡と結びつけられる指標概念と、シフターに代表される言語的な指標概念とを統一的に扱える指標概念を示す、というものでした。この目的のために、指示referenceの作用をめぐっての指標と解釈項との関係を整理していく、という作業を行いました。これはまずはわかりやすいところに議論を絞ることで、指標概念の再解釈が成立することをまずは示そう、という戦略によるものでした。ただ結果的にはこの戦略ではうまくいかなかった部分があったのだと思います。その原因の一つは、発表ではメディア研究で使われてきた概念をターゲットにしたのですが、メディア研究が指標概念によって捕まえようとしている事態についてアドレスできていなかった、ということにあったのではないかと現時点では分析しています。
いくつかやりとりさせていただいた結果、「概念の再解釈としては成立しているかもしれないけど、自分たちがこれまで指標概念で考えてきたことと、その概念の再解釈がどうつながるのかが見えない」という感想を持たれたのだという印象を持ちました。おそらくそれは、僕自身の発表が、概念に照準を合わせて、それまでその概念が扱ってきた問題系に照準を合わせていなかった、ということからもたらされたのではないか。そのような仮説から、少しだけ発表に補足してみたいと思います。ちなみに発表内容自体の大筋の一部は、何日か前のブログで書きました。
メディアの物質性と表現の実質
発表で「指示reference」を議論の軸に据えたことで、おそらく見えにくくなった部分がありました。実際には途中から「現実への定位」というより抽象的な説明に移行しているのですが、「指示」と「現実への定位」とがどのような関係にあるかの整理もできていませんでした。加えて説明の中で挙げた具体例が基本的には「指示」に関するものだったということも問題だったと思います。
たとえば写真の場合、映っているものが何を指示しているかを特定するためには、現実世界のコンテクストを探すという解釈的な探査行為が求められる、というような説明をしました。これについては基本的には特に異論が出る主張ではないと思いますが、そのような指標概念では、ある種の写真の効果を説明できない、ということも確かだと思います。この「指示」に基づいた指標概念は、メディアの物質性が浮上して表象的な意味作用を中断したり阻害する、という事態が生み出すエステティックな効果を説明することが難しいと思います。そうした表象においては、表象が現実世界の何を指示しているか、というところとは別の次元での何かを生み出しているからです。そこでは表象の指示作用は宙づりにされるとともに、そのような宙づりを生み出しているメディアの物質性の前景化が、メディア論的な問いを提起します。そのような問いに答えるための概念が指標ではないのか。このような反応が出るのは当然かと思います。
たとえばロザリンド・クラウスは「指標論」で、マン・レイの「埃の培養」を指標が前景化した作品の例として挙げています。

https://collection.topmuseum.jp/Publish/detailPage/31057/
この写真の効果を、映り込んでいる対象(表象の指示対象)の特定可能性、という観点から説明するのは無理があります。ではこの写真の効果をどう説明すればいいのか、という問いに対して持ち出されたのが指標概念で、その核心に見出されたのが物質性、ということになるかと思います。
改めて考えると、写真の物理なphysical指標性には二重の側面があるのだと思います。一つは指示連関の物理性。写真に写っているものは現実に写真の前に存在し、その光の痕跡が残されたということが、写真に写っている対象の対象性を形作る。もう一つが、写真というメディアそのものの物質性。でもこうした二重性は写真だけに固有なものではないと思います。
たとえば「あれ」というシフター。この例での指示のレベルの指標性は、指し示されている言及の対象の探索(発話者が注意を向けている方向の確認)というアクションを起動させます。写真に写っている対象の探索と機能的には等価です。他方、もしその「あれ」と発話する声がかすれていたら、もしかしたら発話者の体調に問題があるのかもしれないと考え、その声のかすれの原因を探索するアクション(「もしかしたら体調悪い?」と質問するなど)が起動されるかもしれません。この後者は、イエルムスレウの「表現の実質expression substance」に関するものです。発表のなかで指標は「現実に定位した解釈過程を起動させる」と説明した際には、指示対象の探索のための現実への定位と、「表現の実質」をめぐる現実の定位という二つの側面を合わせて考えていました。ただ、その二つの側面の違いをちゃんと説明できていなかったかと思います。
発表ではCTスキャンと外科医の例も挙げました。ここでも指標の二重の側面を考えることができます。写真イメージに移った影から、その原因となっているかもしれない病気の探索(別のイメージ撮影、血液検査など)が起動される、という指示対象の探索という側面での指標的解釈プロセスがまず考えられます。他方、その写真イメージに、患者の身体性の参照では説明できない何かが映りこんでいる際に、CTスキャン機器の故障を疑う、というケースも考えられます。その際には、機器の故障がないかを確認する別種の指標的解釈プロセスが起動します。これがCTスキャンにおける「表現の実質」の次元での指標性です。
この二種類の指標性のうち、「表現の実質」に関わるのは表現のオブジェクトレベルでの指標性、ということができるかと思います。ここでのオブジェクトは、一つ限りのモノという物体としてのオブジェクトです。記号で言えば、一般的なタイプとしての記号ではなく、そのつどの個別の現われとしての記号のトークンです。パースは記号におけるそうした一回限りの現われとしての物質性を「単一記号sinsign」と呼んでいました。この個別の現われとしてのオブジェクトに関わる指標性は、そのオブジェクトがまさにその通りに在り方をしている、ということを実現した現実的な連関に定位した解釈を起動させます。
例えばばわかりやすい例だと、ポロックのドロッピングによる絵画は、それを具体的に生み出した画家の身体性を指標します。ゴッホの絵の何重にも塗り重ねられた絵具も、それを生み出した腕と手の身体性や画材の物理性を指標します。あるいは、そのオブジェクトの個別性を生み出している何かを指標しながら、しかしそれがなんであるのかは宙づりにするような表現もあると思います。シンボルによる表象的な解釈のロジックを、指標に別の解釈のロジックで中断したり妨害したりするという、パース的に言えば異なる記号タイプに対応する解釈項を同時に起動させて錯乱させるような芸術の実践もたくさんあるのだろうと思います。
デジタル時代の「表現の実質」と物質性の問題
こうした「表現の実質」の側面での指標性という観点から、デジタル時代の指標性を、特定の表現の可能性の条件となっているアルゴリズムのレベルの前景化、という観点から捉える発想が可能となります。まさにそのような議論をしているのが、 Paul Willemenの “Indexicality, Fantasy and the Digital.”(2013)です。彼はイエルムスレウの「内容の実質」と「表現の実質」の区別に基づき、デジタル時代の指標性を、この後者のレベルでの表現のアルゴリズムの次元を再帰的に表現のうちに表面化させている作品のうちに見出します。イエルムスレウを参照してはいませんが、Braxton.Soderman,“The Index and the Algorithm.” (2007)も同様の方向性でデジタル時代の指標性を議論しています。
その方向自体は正しいとは思うのですが、しかし物質性という概念だけではとらえられない次元も色々あるかと思います。たとえば、ある表現を成立させている可能性の条件そのものを可視化する、という風に一般化するならば、表現を支えるテクノロジーの側面は、その条件のごく一部をなすにすぎません。たとえば表現をめぐる法制度や、産業構造や、あるいは歴史的な偶然の経緯なども、ある表現がまさにそのような形をしている、という事態を現実的を作り上げています。指標概念を狭義の物質性から解放し、それを生み出した現実的な連関に定位した解釈のプロセス、として一般化することで、たんにテクノロジー上のアルゴリズムだけではなく、たとえばあるテクノロジー利用のライセンス条件だったり、その背景にあるビジネスモデルだったり、といったものも含めて、ある表現を「痕跡」として指標的に読み込む、という態度が可能になると考えています。Willemenが挙げていたのは、表現のテクノロジカルな条件を再帰的に作品内で指標するような表現でした。ほかに、たとえばトリュフォーの『アメリカの夜』なんかも、表現の産業的な条件を再帰的に作品内で指標するような表現、と呼べるかもしれません。またそういう再帰性を持たない表現についても、外からさまざまな「痕跡」として読み込むことは可能です。たとえば最初のトーキー映画の『ジャズシンガー』、それを可能とした技術的条件をめぐる再帰的な関係をもつ作品ではないかもしれませんが(そうした再帰性を見出す解釈もありうると思いますが)、それでも当時の映画製作の技術的条件をそこに指標的に読み取ることは可能です。「現実に定位した解釈作用を起動するものとして指標概念」は、より柔軟なメディア表現の解釈をアフォードするはずだと考えています。
今回の発表の趣旨は、記号だけみてもそれがどのような指標性であるかを確定させることができず、その指標によってどのような具体的な解釈項が起動されたかによってのみ、事後的にそれを起動したところの指標性の在り方を初めて考えることができるようになる、というものでした。そして「映像の物質性」も、そのような事後性のなかで考えることができるはずです。
『ローマの休日』を見て、ヘップバーンにあこがれて真似をする人もいれば、作品に登場した場所を訪れる人もいる。『ローマの休日』という記号の指標性は、結果的に生まれたそれらの反応からの逆算からしか確定させることできないのではないか。ヘップバーンの真似をする、という際も、作品内のアン王女というキャラクターの真似をするのか、あるいはそのキャラクターから離れて、ヘップバーンのプライベートも追っかけていくのか、で当然そこで起動している解釈過程は異なります。そしてこの後者の解釈過程は、たとえば芸能ジャーナリズムなど、周辺のメディアシステムと結びつくことによってより強くアフォードされます。
長々書いてきて、まだ全然まとまっていませんが、疲れてきたのでこの辺で。ひとまず指標の概念だけでなく、指標の概念によって考えようとされてきた問いにもアドレスする必要がある、ということについても引き続き考えていきたいと思います。やっぱりフィードバックは大事だなと実感した学会発表でした。