指標とトリノの聖骸布
明後日の日本メディア学会大会での発表スライドが多くなりすぎて、いろんなトピックを省略せざるをえなくなっている。その供養として、発表では触れられないけど個人的には一押しのトピックをここで紹介。
メディア研究における指標概念のテンプレ
指標indexの概念は、メディア研究では物質的な痕跡に関わるものとして、写真的イメージを説明する際に援用されてきた。その歴史にはいろいろな登場人物がいるけど、特に大きな役割を果たしたのがロザリンド・クラウスが1977年に発表した指標論。そこでクラウスはこう書いている。
「いかなる写真も、光の反映を感光性の表面に転写した物理的痕跡の結果である。写真はそれゆえ、一種のイコンつまり視覚的類似性であり、対象に対し指標的関係を持つ。」(クラウス 2021: 309)
そしてそこで参照されているのはパースの次の主張だ。
「写真、特にスナップ写真は非常に有益である。というのは、それらは表意している対象にある点でまったくよく似ているということをわれわれが知っているからである。しかしこの類似性というのは、写真が一点一点物理的に自然と対応するよう強いられるという状況のもとで作られたという事実によるものである。そういう点で、それらは記号の第二のクラスつまり物理的結合による記号のクラスに属する。」(CP2.281; パース1986: 35)
これがメディア研究における、指標概念の使い方の一つのテンプレを用意した。
指標とデジタル
しかしデジタルメディアの時代に入り、指標概念の雲行きが怪しくなる。写真的イメージの独自性が、感光版が光と接触したその物理的な痕跡としての指標にあったのだとしたら、デジタル化された写真からは指標が消えることになる。これについてはあれこれ議論があるが、ここでは触れない。そうした状況を受け、そもそも指標とは何なのか、みたいな議論が展開されていくことになる。そうした流れの一つの集約が、2007年に刊行されたカルスタ系の学術誌difference誌での指標性特集。そこで、指標性の「両義性」が問題とされる。
メディア研究では、指標を物理的な痕跡と理解し、その枠組みで写真を理解してきた。しかしその参照元のパースは、明らかにより幅広い指標概念を提起していた。たとえば「これ」「あれ」といった指示詞を指標の例に挙げる。これらの指示詞には、当然物理的な痕跡性はまったく伴っていない。一方では写真のような物理的痕跡、他方では言語的な指示詞、そのどちらもをカバーする指標という概念とは何なのか。メアリ・アン・ドーンもトム・ガニングも、そこに考えるべき謎があると示唆するだけで答えは示さない。
記号と解釈項
メディア研究における指標概念は、つまるところ、記号自体のどのような性質が指標であるのか、という問いの形式の中にあった。これが根本的な誤りだ。パースの記号論は、記号×対象×解釈項の三項関係で理解される。つまり記号と対象の関係だけで記号のタイプを理解するというのは根本から間違っている。たとえばパースは次のように述べている。
「表意体は、解釈項を現実に決定するまではそれ自体として現実に機能することはないが、十分にその決定ができるとすぐに表意体になる。そしてその表意体の質は、それがかつて現実に決定していた一つの解釈項や、それが現実に持っている対象に必然的に依存するわけではない。」 (CP 2.275)
ここでの表意体は記号のことだ。記号は解釈項から切り離して理解はできず、解釈項が決まることで記号も決まると明確に述べている。そして記号と解釈項の関係は固定したものではなく、同じ記号でも、解釈項も変わるしそれに応じて記号と結びつく対象も変わる。では解釈項がコロコロ変わって、記号の意味もコロコロ変わるということもありうるのか?原理的にはありうるが、実際にはそうはならない。なぜそうなのかを説明するのが習慣の概念だ。
「記号とは何かという問いに対する一般的な答えは、記号とは解釈項となる記号を決定するものであり、この解釈項となる記号は、以前の記号の組み合わせから生じた習慣によって決定されるというものである。(CP5.484)」
習慣は、ある程度安定するから習慣と呼ばれる。しかし完全に固定されているわけでもない。ある種の粘着性を発揮しながら、必要に応じて少しずつ変わっていく。ある記号の解釈項がある程度の安定を示すのは、習慣のこのような粘着性のためだ。
習慣と指標
記号のタイプは解釈項によって決まるのだから、指標とは記号自体の特性の性質ではなく、記号を指標として解釈するような解釈項をもつ記号のことを指す。そのことを踏まえて、パースによる指標の別の定義を見てみよう。
「それが指示する対象により現実にreally影響を受けることによってその対象に言及するような記号」(CP 2.248; パース 1986: 12)※訳語は修正
パース自身の説明は、記号自体がもつ何らかの性質をめぐっているように見えるが、三項関係を踏まえればそのように解釈するべきではないだろう。正しくは、「対象により現実にreally影響を受けることによってその対象に言及」という解釈の枠組みによって解釈されるような記号が指標と呼ばれる。そして具体的にどのような記号が指標として機能するかは、習慣によって決まる。写真を見ると、なぜかしばしば、そこには現実の痕跡が残っているという解釈項が活性化される。だったら写真は指標だ。なぜそうであるのかは、パース流の独自の習慣概念、すなわち「物質とは安定した習慣である」と主張するような特殊な習慣概念が関わっていると思われるが、そこには踏み込まない。
指標が、記号を指標とみなす習慣という解釈項の問題であると位置づけることができれば、デジタル写真に指標は宿るか、というのがあまり意味のない問いであることはすぐにわかる。意味のある問いは、デジタル写真は、写真を解釈する際の解釈項=習慣化された解釈の枠組みを変容させるか、だ。そして答えは、間違いなく変容させるが、かつての習慣も執拗に残る、というものだ。それがどのくらい、どのように残るかについては判断が分かれるだろう。
アフォーダンスとしての指標
指標を、それを指標として解釈する解釈項が起動されるような記号、という風に定義すると、指標のアフォーダンスとでも呼ぶべき何かが浮かび上がってくる。ある種の記号は、それを受け取る者=解釈項に、現実的な因果関係による推論を促す。しかしそれは必然ではない。たとえば人間の赤ちゃんは写真を見ても、アイコンレベルでの反応(虫の写真を見て本能的に怖いと思うなど)を示すかもしれないが、映っている家はどこの家だろう、などとは思わない。アフォーダンスは、そこに「差異を生む差異」を見出す者にしか生じない。
写真も「あれ」も、現実的な因果関係による推論をアフォードする、という点で機能的に等価だ。誰かが「あれ」という言葉を目の前で発すると、聞き手は発話者が注意を向けている方向に目を向ける。写真の場合は、写真が撮影された日付や、あるいは場所を特定できるようなランドマークが映り込んでいないかを探す。いずれも、現実世界の中に定位した記号解釈のプロセスがアフォードされている。文字のようなものが目に入ると、それをどうにかして読もうとしてしまうという象徴的解釈作用のアフォーダンスが発生するように、指標は現実世界に定位した解釈アフォーダンスを発生させる。
セミオーシスとしての指標解釈行為
日常語で解釈、と言うと、瞬間的な点のような出来事をややもすると連想させるかもしれないが、パースにとって解釈は、際限なく連鎖していくセミオーシス(記号過程)だ。だから指標がアフォードする解釈作用もそのようなセミオーシスとして理解する必要がある。たとえば医者がCTスキャンを見て、そこに怪しい影を発見したとする。するとその写真は医者に、患者の身体という現実に定位した指標的セミオーシスをアフォードする。医者は別の手段で写真を取ったり、血液検査をしたりして、その影を患者の身体の中で生み出した何かを推論していくだろう。指標によって引き起こされたこうした一連の反応の全体が、指標的セミオーシスであると言える。
こうした指標的セミオーシスのプロセスを示すものとして、大変面白い例がある、というのがこの記事で書きたかったことだ。明後日の発表で省略せざるを得ないネタというのがこれで、それについて書くための前置きを40分くらいの時間で一気に書きなぐってきた。やっとその話ができる。
トリノの聖骸布と指標的セミオーシス
ディディ=ユベルマンとレペンセク(と読むのか?)による、トリノの聖骸布をめぐってのとても面白い論考がある(Didi-Huberman and Repensek 1984)。トリノの聖骸布とは、磔から降ろされたイエス・キリストを包んだとされる衣で、アンドレ・バザンが「写真映像の存在論」で取り上げたことでもよく知られている。ディディ=ユベルマンらは、このトリノの聖骸布を撮影した写真が引き起こした非常に興味深い指標的セミオーシス(彼らはそうは呼んでいないが)の例を紹介している。
指標は、現実世界に定位した解釈過程をアフォードする。そしてそのアフォーダンスに反応できるのは、反応できるような解釈項を持った存在だけだ。たとえばトリノの聖骸布という指標に激しく反応できるのはキリスト教徒だけだろう。キリスト教徒でなければ、その衣に触れた昔の人がいたらしい、といった指標的推論は行うかもしれないがそれだけだ。しかしキリスト教徒であれば、磔から降ろされたイエス・キリストに現実に接触した衣、という存在が喚起する指標的解釈作用はとても強くなるはずだ。しかもその衣には、血の染みがついている。伝説が正しければ、それはイエス・キリストその人の血であるはずなのだ。
ここに一人の人物が登場する。彼は熱心なキリスト教徒であることに加えて、解剖学者でもあった。トリノの聖骸布の写真は、そのPierre Barbetというフランス人の信徒兼解剖学者に強烈な指標的アフォーダンスを提供した。Barbetは聖骸布に残された血痕の位置から、主イエスが正確にどのように磔にされたのか、身体のどこに釘が撃ち込まれたのかを推定できるはずだと考えた。そして解剖学者である彼は、実際に実験をした。

(Didi-Huberman and Repensek 1984)より転載
1935年、Barbetは解剖用の遺体を用いて、実際に体に釘を打ち込んだ。そしてどこにどのように釘が撃ち込まれれば、ちゃんと十字架で体が安定するかを確かめた。そしてそのレントゲン写真を撮影した。イエスの磔については、聖書をはじめそれまでも繰り返し語られてきたはずだ。そこには磔行為の細部についての記述もあるが、Barbetが行ったような、厳密な科学的実証の試みはおそらくなかったはずだ。そのような実証の試みは、写真という指標的メディアによってアフォードされたものだからだ。聖骸布に残された血痕は、まさにその場所に血痕を残したという事態を生んだ現実的な因果を推論しようという想像力を駆動した。Barbetをそのような現実の実験に駆り立てたのが、指標的なセミオーシスだ。
聖骸布の写真のアフォーダンスを感じ取ったのはBarbetだけではなかった。1970年ごろ、Giuseppe Ricciというイタリア人が、写真をもとにより正確に磔の出来事を再現しようと試みた。Ricciは聖骸布上の血痕の分布から、磔の方法やむち打ちの回数、磔刑時のイエスの姿勢などを割り出そうとした。

(Didi-Huberman and Repensek 1984)より転載
加えてRicciは「軸測投影法(axonometry)」という手法を用いて、磔刑時のイエスの痙攣を再現し、血痕の分布を説明しようとした。現実の因果関係に定位する指標的セミオーシスは、可能な限り具体的な細部へと注意を向けていく。
極めつけは、トリノの聖骸布の専門家であったCôme神父。彼は処刑時の状況証拠から、イエスは絶命時に精液を発出したはずだと推定した。当然のごとく大きな論議を呼んだこの主張もまた、写真という指標によって引き起こされたセミオーシスによって導き出されたものだ。
ディディ=ユベルマンらは、トリノの聖骸布の写真の指標的アフォーダンスを次のように表現する。
したがって、この不在の傷は、シミを追跡するという単純な処置によって、釘の挿入と除去、肉の開口と部分的な閉鎖をめぐる耐え難いほど正確なシナリオのための舞台を整えることになる。(Didi-Huberman and Repensek 1984: 73)
まとめ
指標とは、記号を指標として解釈する解釈項によって解釈される記号である。そして結果として、指標は指標的なセミオーシスをアフォードするものとして立ち現れる。その指標的なセミオーシスは、「あれ」という言葉に反応して発話者が見ている方に注意を向けるのであれ、写真に写っていものを特定する情報を探そうとするのであれ、レントゲン写真から病気の正体を割り出そうとするのであれ、さらにはイエスの磔刑の具体的な場面への想像力を極限まで肥大化させるのであれ、すべて現実の世界に定位した解釈アクションを展開していく。わたしたちを現実に定位した推論に駆り立てる記号作用は、原理的にはすべて何らかの形で指標的である。
書きたかったのはトリノの聖骸布のことだけだったが、その説明に必要な文脈について書いていったら、明後日の発表の三分の一くらいの内容も書くことになってしまった。
ちなみにトリノの聖骸布は、その後、放射性炭素年代測定によって13世紀から14世紀のものだと推定されたという。そんな検査は野暮だなと思いつつ、しかし写真というメディアがアフォードする指標的セミオーシスは、必ずそこに至りつかずにはいられなかったはずだとも思う。